ショパンのノクターン 2 番と生涯(前半生)ーポーランド民謡の影響

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生涯で開いた公開演奏会は、

記録の上で三十回。

同じ時代のパリで、

リストは演奏会に

多くの聴衆を集めていた。

ショパンは、

それだけの回数しか

人前で弾いていない。

それでも伝説になった。

なぜ、

そんなことが可能だったのか。

手がかりは、

ワルシャワ郊外の小さな村で

始まる前半生にある。

今日はフレデリック・ショパンの

生涯について、

幼少時から

ジョルジュ・サンドとの出会いまでを

探究してみたい。

 

目次
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ショパンの生涯(幼少時)と父の教育方針

 

フレデリック・ショパンは

1810年3月1日、

ワルシャワ郊外の小村

ジェラゾヴァ・ヴォラに生まれた。

父ミコワイと母ユスティナの

あいだには、

4人の子供がいる。

長男フレデリック、

長女ルドヴィカ、

次女イザベラ、

三女エミリア。

男一人に、

女兄弟が三人という家だった。

 

母ユスティナは

敬虔なカトリック信徒だった。

聖歌とキリスト教の教えは、

まず母から。

ピアノの手ほどきも、

母と姉ルドヴィカから受けている。

 

6歳の頃、

チェコ生まれの音楽家

ヴォイチェフ・ジヴニーが

家庭教師として家に来て、

本格的なピアノ・レッスンが

始まった。

腕前はすでに、

同年代の子供たちを

はるかに凌いでいた。

ジヴニーのもとで、

才能は自然に花開いていく。

 

ミコワイはショパンを

高等学校になかなか

入学させなかった。というのは、

基本的学習が足りないと

考えていたからだ。

しかし、

それがショパンの音楽的才能に

幸運となった。

八歳から十三歳までの五年ほど

ミコワイとバルチンスキによる

家庭教育は続き、その間、

ショパンは学校の時間に

拘束されることなく、

毎日自由にピアノを

練習し即興演奏していた。

このような環境のなかで、

ショパンは最初の作品ト短調の

《ポロネーズ》を作曲した。

これはフリデリック・スカルベクの

援助で一八一七年自費出版され、

批評雑誌で取り上げられた。

ポーランド民族音楽の作曲家は、

弱冠七歳でいながら、

すでに真の天才だと絶賛された。

引用:小坂裕子著「ショパン」

(人と作品シリーズ)P.13

 

この引用でまず目が止まるのは、

父ミコワイが息子を高等学校に

「なかなか入学させなかった」

という一行である。

理由は、

基本的学習が足りないから。

教育に厳しい父の、

慎重な判断だった。

ところが、

その慎重さが幸運に転じる。

学校に拘束されない五年間、

ショパンは毎日自由に

ピアノを練習し、

即興演奏に没頭できた。

その環境から、

最初の作品ト短調の

《ポロネーズ》が生まれる。

七歳である。

子供の習作ではない。

自費出版され、

批評雑誌で取り上げられ、

“真の天才”と絶賛された。

 

八歳でそのラジヴィヴ公の前で

演奏したショパンは、

その後もあちこちの貴族の館から

乞われては演奏を重ねていく。

ショパンの父ミコワイは、

息子が教養の高い人々に

称賛されることは喜んでいた。

ワルシャワの知識階級を

率いる一人である父は、

子供の時代は、

教養豊かなバランスのとれた人間に

育つための、

基礎を養うべきであると

考えていた。

息子がいくら音楽に才能を

示そうとも、

音楽だけをしていればいいという

考えなど持たなかった。

神童ではないかと人々が

噂することは喜んだとしても、

モーツァルトの父のように、

それを糧にするつもりも

その必要もまったくなかった。

引用:小坂裕子著「ショパン」

(人と作品シリーズ)P.14

 

 

ここで、

同じ「神童」と噂された

モーツァルトが対比に浮かぶ。

モーツァルトの父は、

息子の才能を糧にした。

ミコワイには、

その必要がまったくなかった。

裕福で教養があり、

音楽だけをしていればいい

という考えを

持たなかったからである。

神童ショパンは、

稼がされなかった。

この一点が、

二人の幼少期を分けている。

こうして13歳になるまで、

ショパンは自宅で

ピアノを日々練習しながら、

様々な貴族のサロンで

演奏を重ねていく。

 

ショパンの生涯(学生時代)とポーランド民謡の影響

 

エルスネルも父ミコワイの

友人として、

幼いショパンの演奏を

耳にするたびにその才能を

認めていた。

音楽学校でショパンを

教える以前に、

すでにショパンに作曲上の

助言をし、

十二歳のころには音楽理論書を

与えている。

ショパンは高等音楽学校でピアノを

教える、

ヴィルヘルム・ヴァツワフ・

ヴュルフェルからオルガンをも

習い始めた。

ジヴニーと同じくエスルネルも

ヴュルフェルも、

ショパンに演奏法を

教えなかった。

音楽の専門家たちがこぞって、

ショパンにあえてピアノ奏法を

指導しなかったということが、

ショパンの演奏家としての

生まれ持った才能がいかに

稀有なものであったかの

証明となる。

引用:小坂裕子著「ショパン」

(人と作品シリーズ)P.18-19

 

特筆すべきは、

教えなかった、

という事実である。

ジヴニー、エルスネル、

ヴュルフェル。

三人の音楽の専門家が、

そろってショパンに

ピアノ奏法の型を教えなかった。

普通は誰でも、

基礎の奏法から学ぶ。

それをあえてしなかった。

なぜか。

ショパンの奏法は、

天性のものだったからである。

これまでの奏法とは違う

独自のもので、

しかも自然で、

彼の即興音楽には

なくてはならないものだった。

型を教えれば、

それを壊してしまう。

専門家たちは、

そう見抜いていたのだろう。

 

音楽学校で正式に

指導する以前から、

ショパン家でたびたびショパンの

演奏を耳にしていたエルスネルは、

その小さな手が作り出す

ポーランドの民族音楽を

基盤にした独創性あふれる

即興演奏に感嘆していた。

だからその稀有な才能を、

厳格な音楽理論で

束縛して台なしにすることを

おそれたのだろう。

エルスネル自身のポロネーズや

マズルカといった民族音楽を

題材にした作品に、

幼いショパンは目を輝かせながら

聴き入っていた。

その理解力にもエルスネルは驚き、

ショパンこそ

自分たちポーランドの

音楽家の最高峰に

立つことができると

確信していたにちがいない。

エルスネルはショパンの才能を

温かく見守り、その指導のもとで、

一八二二年には嬰ト短調の

《ポロネーズ》が作られた。

引用:小坂裕子著「ショパン」

(人と作品シリーズ)P.19

 

エルスネルが恐れたのは、

「厳格な音楽理論で束縛して

台なしにすること」だった。

ショパンは幼いころから、

ポーランドの民族音楽に

馴染んでいた。

ポーランドへの愛国心が、

民族音楽を基盤にした

独創性あふれる即興演奏を

生んでいく。

エルスネル自身が

ポロネーズやマズルカの

作曲家であり、

幼い弟子はその作品に

目を輝かせて聴き入った。

この稀有な才能を、

型にはめずに伸ばしたい。

それがエルスネルの願いでも

あったのだろう。

 

13歳で、

父ミコワイが教鞭をとる

リツェウムの四年次編入試験に

合格し、

基礎学問を学ぶ。

16歳から18歳ぐらいまでは、

エルスネルが教鞭をとる

ワルシャワ音楽院で、

対位法や和声を学んだ。

卒業試験に際して

エルスネルが弟子に与えた評価は、

「稀有な才能ー音楽の天才」

だったといわれている。

 

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ショパンのノクターン2番と生涯(パリへの亡命)

 

ウィーンでの最初の演奏会は、

大成功だった。

ショパンは二度目の

ウィーン来訪を果たす。

そこで事件が起きる。

「ワルシャワ11月蜂起」の

勃発である。

1830年11月、

ポーランドは独立を宣言した。

翌年9月、

ロシアがポーランドを占拠する。

革命に加わった人々は、

パリへ亡命することになった。

家族も仲間も、

ポーランドに残っている。

やるせない気持ちで書いたのが、

作品10の12の練習曲、

俗称《革命》だと言われている。

その後、

ショパンはパリに住むことになる。

 

ここで、

ショパンの代表曲を

1曲紹介したい。

夜想曲第2番 変ホ長調 作品9-2

(ノクターン第2番)。

フレデリック・ショパンが

1831年に作曲した

ピアノのための夜想曲で、

21曲あるノクターンのなかでは

最もよく知られた楽曲である。

 

 

ショパンとフランツ・リストの出会い

 

そしてショパンは、

このパリでフランツ・リスト、

フェルディナント・ヒラー、

メンデルスゾーンと出会う。

 

ショパンより一歳年下のリストは

ハンガリー生まれで、

ジプシー音楽を愛していた。

ショパンと知り合った時は

ニ十歳にすぎなかったが、

波乱万丈の経験を重ねたためか、

どこか影のある様子だった。

しかし、

いかにも芸術家らしい風格も備え、

パリでもっとも注目される

音楽家のひとりとして、

演奏会に多くの聴衆を集めていた。

「僧服を着た曲芸師」

と称されるほど宗教への憧れを

隠さずに、

それでいて演奏はあたかも

曲芸のように極端ともいえるほどの

派手な演奏ぶりのリストは、

目の前に立ったショパンの様子に

魅了された。

「自分には備わっていない

貴族的雰囲気に包まれていて、

まるで生まれながらの

王子のようだ」

とショパンを称賛した。

自分と同じように貴族ではないが、

生まれ持った気品が

備わったかのような

ショパンの様子、

それに見合うかのような繊細な指、

そこから生み出される音楽が

示す美しい独自性、

そのいずれにもリストは強い魅力を

感じたのだろう。

引用:小坂裕子著「ショパン」

(人と作品シリーズ)P.56-57

 

「僧服を着た曲芸師」と、

「生まれながらの王子」。

派手な演奏で聴衆を集めるリストが

目の前のショパンに見たのは、

自分には備わっていない

貴族的雰囲気だった。

ここで、

冒頭の数字に戻りたい。

ショパンは、

演奏会が苦手だった。

生涯の公開演奏会は三十回、

という記録が残っている。

リストが多くの聴衆を集めていた、

同じパリで、である。

それだけの回数で伝説になった。

本当に稀有な音楽家と

言うほかない。

演奏会の批評には、

若者にしては音が小さい、

という意見もあった。

だがそれは、

ショパンの繊細で細やかな

演奏法ゆえのものである。

超絶技巧を

パフォーマンスするリストとは、

鳴らす音の大きさからして

対照的だったのだろう。

 

ショパンの独創性とピアノ曲の稀有なる調べ

 

ショパンには独自の

テクニックがあることを、

いずれの指導者たちも

見抜いていた。

作品もそのテクニックに

裏付けされて作られているので、

生徒を教える方法がほかの

音楽家たちとは違う

独自のものということになる。

たとえば、

リストはチェルニーの弟子であり、

カルクブレンナーはクレメンティの

弟子とがなかったので、

その演奏法は独自のもので、

ほかのだれかのものを

受け継いでいるという

ところがなかった。

引用:小坂裕子著「ショパン」

(人と作品シリーズ)P.73

 

ショパンの演奏法は、

誰からも受け継いでいない。

だから教え方も、

他の音楽家とは違う

独自のものになる。

それでいて、

ショパンの練習曲は

芸術性と上達のための技法を

兼ね備えていた。

他の音楽家たちが

彼の指導法に一目置いた理由は、

ここにある。

 

パリで一番有名なピアニスト

だったカルクブレンナーは、

最初、

ショパンに三年間の教授を

打診した。

「古典派の音楽を

身に付けなかったら、

そこから新しい音楽を

創造することはできない」

というのが、

その理由である。

故郷ポーランドの

エルスネルだけでなく、

メンデルスゾーンも

不愉快な気分だったと

言われている。

ショパンは悩んだ末に、

この申し出を断った。

目指したのは、

「独力で新しい音楽を創る」こと。

カルクブレンナーと共演した

演奏会でショパンの稀有なる才能が

証明されたとき、

メンデルスゾーンは

喝采を送ったという。

 

その後もショパンは、

イギリスへ演奏旅行に行き、

様々な楽曲を制作した。

だが、

この時代の稀有なる音楽家と

言われる所以は、

別のところにある。

ロマン派全盛、

オーケストラ曲が主流の時代に、

ショパンはピアノの奏でる音楽を

探究し、

ピアノ楽曲を創り続けた。

独自の奏法で

人々を魅了するピアノ曲を、

多数生み出した。

楽曲の99%がピアノ曲。

協奏曲なども含め、

作曲した楽曲すべてに

ピアノが含まれている。

 

題名の付け方にも、

姿勢が表れている。

ロマン派の作曲家たちが

自身の楽曲にストーリーや題名を

付けたのに対し、

ショパンは題名をつけず、

すべて番号だった。

《革命》も《英雄》も、

後世の人々が付けた通称である。

 

残されたピアノ曲は、

練習曲として優れ、

芸術性にも優れている。

だから後世の音楽愛好家たちに

好まれ、

練習され、

多くの人々に影響を与えた。

その独創性と、

ピアノ曲の稀有なる調べに

敬意を表したい。

 

ショパンの生涯(前半生)とジョルジュ・サンド

 

ショパンの生涯は長く、

語りつくせない。

最後に、

人生に大きく影響を及ぼした

ジョルジュ・サンドとの

出会いの場面を紹介したい。

 

サンドは長い手紙のなかで、

ショパンが「人間の欲望を軽視し」

「深い陶酔は愛を汚す」

と考えているようだと書いている。

積極的に迫るサンドに、

とまどいを感じていたのだろう。

恋の経験も浅く、

マリアのことで傷ついてしまった

ショパンと、

多くの恋を経験してきた

サンドとでは、

それぞれのとまどいはまったく

違った次元のようだ。

引用:小坂裕子著「ショパン」

(人と作品シリーズ)P.109

 

「人間の欲望を軽視し」

「深い陶酔は愛を汚す」。

サンドの手紙に残るこの言葉から、

ショパンがどれほどストイックに

音楽へ向き合っていたかが

垣間見える。

積極的に迫るサンドと、

恋の経験が浅く、

マリアのことで

傷ついたばかりのショパン。

二人のとまどいは、

まったく違う次元にあった。

 

ショパンはこの後

ジョルジュ・サンドと別れ、

39歳でこの世を去る。

後半生に興味がある方は、

ショパンの伝記を

お読みいただきたい。

 

最後にもう1曲紹介したい。

ポロネーズ第6番変イ長調 作品53、

通称『英雄ポロネーズ』。

フレデリック・ショパンが

1842年に作曲し、

翌年に出版したポロネーズである。

弾くのは、

天才ピアニストのホロヴィッツ。

名演である。

ぜひ、

ショパンの調べを

味わっていただきたい。

 

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この記事を書いた人

著者: 有田 知揮(ありおん)
文化探究と西洋音楽史への愛から「文化の創りかた」を運営。
本業では Aoide Production として、小規模事業者向けの Web 制作・保守も手がけています。
「むずかしいを、わかりやすく」をモットーに。
→ aoide-production.jp

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