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ブラームスの性格と音楽における霊感ー内なる神性の輝き(本人が語ったインタビュー)

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今日はブラームスの性格と音楽における

霊感を探究してみたい。

 

J.S.バッハベートーヴェンと並んで

ドイツ音楽における三大Bとも称される

ヨハネス・ブラームス。

1833年5月7日にハンブルグに生まれたが、

19世紀の音楽史において

シューマンやクララ、ワーグナーなど

他の音楽家との関わり合いから、

後世への影響につながっていく様は

非常に興味深く、

また音楽史上でも系譜を継ぎつつ

高みを作った一人であると感じる。

 

以前書いたシューマンの記事でも紹介したが、

楽曲を発表せず実績がない時から

ベートーヴェンの後継者と言われ、

プレッシャーと闘いながら

作品を生み出し続けたブラームスの

思想の部分について触れてみたい。

 

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ブラームスの活躍を予言したシューマンとクララ

 

ブラームスの父ヤーコプは

コントラバス奏者で、

生活は貧しく下層階級の質素な

アパートに住んでいた。

両親が副業もしながら家計を支え、

ブラームスは貧しくも

音楽的な家庭環境のなかで

父に音楽の最初の手ほどきを受けた。

最初に手にした楽器は

ヴァイオリンであったが、

ブラームスの興味は

ピアノに強く向けられるように

なっていったのである。

 

七歳の時、ハンブルグのピアニスト

コッセルに師事し、その後十歳になり

ハンブルグ随一の音楽教師

マルクスセンに師事するようになる。

二人から音楽教育を受けながらも、

家計を支えるため

夜のダンスホールでピアノを

演奏するなど過酷な労働をして

疲弊する日々であった。

 

その後マルクスセンの後援による

演奏会も成功し、

ブラームスは当時有名だったシューマンに

自作曲を送るが、

その時はシューマンが封を切ることなく

送り返されてしまったのだった。

 

そんな経緯がありながら、

ヨアヒムやリストと出会い、

その紹介を経て再び

シューマン家を訪問することになる。

 

一八五三年九月三十日、ブラームスは

デュッセンドルフの

シューマン家の扉を叩く。

その時の接し方は三年前とは

まったく異なっていた。

シューマンはブラームスを

優しく迎え入れ、

彼をピアノの前に案内した。

このとき、彼は第一番と第二番の

ピアノ・ソナタと《スケルツォ》を

持参した。

彼はまずピアノ・ソナタ第一番を

演奏したが、

その音楽と演奏に感激したシューマンは

すぐに隣室のクララを呼び寄せ、

彼女とともに深い感動を表明する。

一八五三年十月十一日のクララの日記には

こう記されている。

「今月は素晴らしい人物、

ハンブルク出身の作曲家ブラームスと

出会う幸運を私たちにもたらした。

彼もまた神からじかに遣わされた

天才のうちのひとりなのだ。

・・ブラームスには差し引いたり、

付け加えたりするようなものは

何もないとローベルトは言っている」

そしてローベルトはブラームスの

ピアノ・ソナタを聞いた衝撃を、

「彼はほんとうに驚くべき

世界をあらわにしだした。

・・・そこには変装した交響曲のような

ソナタがあった」と書き記した。

引用:西原稔著「ブラームス」P.30

シューマンとクララは驚くほど

ブラームスを歓待し、

その感動を表現した。

この人生のなかで一瞬の出会いが、

その後のブラームスの人生に

大きな影響を与えるのである。

 

ブラームスと出会ったシューマンは、

その感動の表現を自身が創刊した音楽雑誌

「音楽新報」に記事として

掲載したのだった。

 

「新しい道」

何年もの歳月が過ぎたーそれはほとんど

私がこの雑誌の編集に捧げた年月と

同じほど、いわば十年ほどにもなる。

この豊かな思い出のある領域で

かつては数々の発言を行ったのだったが。

この十年、私は緊張した創作活動を

行ってきたが、しばしば、

音楽の新しい力を告げるような

数多くの才能に

刺激を受けることもあった。

・・・私は、最大の関心を傾けながら、

こうした前駆のあとで、いつか突然、

一人の人物が現れるだろう、

現れるに違いないと思っていた。

時代の最高の表現を理想的に語るよう

召命をうけた人、段階的にその力を拓いて

巨匠であることを示すような人でなく、

ちょうどクロニオン(ゼウス)の頭から

完全武装して飛び出してきた

ミネルヴァのような人が。

そして、彼は来た。

その揺りかごが優雅の女神と英雄に

見守られていた若者が。

彼の名はヨハネス・ブラームスといい、

ハンブルグの生まれである。

・・・もし、彼が

その魔法の杖を振り下ろし、

合唱と管弦楽において大きな響きの力が

彼に与えられるなら、

精神の世界になお驚くべき光景が

あらわれるだろう。

・・・どんな時代にも、近しい精神の

ひそかな同盟というものが存在する。

そこに属する盟友たちは、

芸術の真理をますます

明るく照らすために、

いたるところ喜びと祝福を広げつつ、

いっそうその環をしっかりと結ぶがよい。

ローベルト・シューマン

引用:藤本一子著「シューマン」P.132-133

当時、作曲家、そして音楽評論家として

名を馳せていたシューマンから、

”クロニオン(ゼウス)の頭から

完全武装して飛び出してきた

ミネルヴァのような人”

と批評されたブラームス。

果たしてどんな心境だっただろうか?

 

このプレッシャーたるは

想像を絶するものだったに違いない。

繊細な心境を持つ音楽家が、

ベートーヴェンの後継者との期待をかけられ、

世に出ていく道を

ブラームスはただひたすらに

まっすぐ歩んでいくのである。

 

そしてその十数年後、

ブラームスが《ドイツ・レクイエム》を

初演した際に、

クララが実感したことがある。

その後、1868年4月10日に

ブレーメン大聖堂で

ブラームスの指揮で六曲版

(第五曲は未完成)

のかたちで初演された。

このときは友人のシュトックハウゼンが

ソロを担当し、演奏は大成功を博する。

この演奏会で指揮台に立つ

ブラームスを見たクララは、

亡き夫が予言したブラームスの未来が

現実のものになったのを

実感するのである。

引用:西原稔著「ブラームス」P.103

クララは、十数年の時を経て、

今まさに

亡きシューマンが予言した光景が

目の前に広がっていたことを

実感したのだ。

 

その時の光景を

クララが記した日記が今に残っている。

彼女は日記にこのように書いている。

「手に指揮棒をもって立っている

ヨハネスを見たとき、

私は愛するローベルトの次の予言のことを

考えないわけにはいきませんでした。

『あれが、合唱やオーケストラにおける

結集した勢力が彼に

その力を与えるように、

自身の魔法の杖を振り下ろすとき、

精神世界の奥義をのぞかせる。

驚くべき光景が私たちの前に

広がっているのだ』

そしてその予言は、

今日、果たされました」

このとき、クララは

あまりの感動に涙があふれ、

「もしローベルトが生きていて、

この演奏会を目にしたならば、

おそらく感じていたと思われる喜び」

を共感するのである。

クララにとって、シューマンの予言が

成就された瞬間であったのである。

引用:西原稔著「ブラームス」P.103

この初演は、

シューマンが予言した

”彼がその魔法の杖を振り下ろし、

合唱と管弦楽において大きな響きの力が

彼に与えられるなら、

精神の世界になお驚くべき光景が

あらわれるだろう。”

という言葉は、

今まさに成就した

とクララが感じた瞬間だったのだ。

 

ワーグナーとブラームスの音楽芸術の理想

 

次にブラームスについて語るとすれば、

ブラームスの主体的な意思ではないにせよ、

ワーグナーとの音楽美学的対立であろう。

 

19世紀の古典的ロマン主義ともいわれる

ブラームスと、

新ドイツ学派で新ロマン主義ともいわれる

ワーグナー。

この二人を対立軸とした

音楽史における保守と革新という構図は、

同じベートーヴェンの系譜を受け継ぎつつも

音楽における思想が分かれていったこと、

後世への影響を双方が与えているところが

非常に興味深い。

 

音楽評論家のあらえびすは

ブラームスの音楽について以下のように

記している。

ブラームスの音楽は

「内容即表現」である。

それはブラームスの全人格を素材とした

混じりっけの無い

白大理石像だったのである。

古典の形式に籠って、潔癖に、正直に

地下百尺に掘り下げた生命の清水が、

即ちブラームスの音楽で

あったと言ってもよい。

私は「ブラームスの生活も

芸術を枉ぐることなき真実だ」

とも言った。

彼の音楽は偽善と軽薄に対する

宣戦であり、

誇示と虚飾に対する偶像破壊でもあった。

当時近代音楽の勃興時代で、

真物も偽物も、

新奇をおうて已まなかった時、

ブラームスは雄大、厳重、素朴、

敬虔な古典主義に還り、ひたむきに

「絶対音楽の聖地恢復」の理想に

突進したのである。

引用:あらえびす著「クラシック名盤 楽聖物語」P.215-216

ブラームスは雄大、厳重、素朴、

敬虔な古典主義に還り、ひたむきに

「絶対音楽の聖地恢復」の

理想に突進したという表現に、

ブラームスの音楽の特徴が

よく表れているのだろう。

 

そしてブラームスがワーグナーの

ことをどう思っていたかについて

このように書かれている。

シューマンやビューローが、

ブラームスを挙ぐるに急であったために、

ブラームスは思わぬ敵を作ったことも

また事実であった。

わけてもワグナーとその一党の

ブラームスを憎むことは猛烈を極め、

関係団体や機関でブラームスの作品さえも

上演を拒む有様であったが、

ブラームスは極めて恬淡で、

ワグナーがウィーンを訪ねた時などは、

最初の訪問で勝手が解らなかったのと、

ワグナーに対してかなり

反感を持って居る者の

多かったのに同情し、

ワグナーのために斡旋奔走して、

ワグナーの真価を認めさせるために

骨を折ったりした。

「ブラームスは蝋燭のように真っ直ぐだ」

という言葉がある。

一部の人達は当時既にブラームスを

正しく理解し、

蝋燭のような性格を愛しもし

尊敬もして居たのである。

引用:あらえびす著「クラシック名盤 楽聖物語」P.225

 

ワーグナーのほうがかなり年上だった

ということもあるのだろうが、

ブラームスは当初ワーグナーについても

偏見はなかったようである。

 

リストが立ち上げた「新ドイツ派」

に対しても、ワーグナーに関しては

含めることに反対していたほどだったようだ。

当時三十歳のヨハネス・ブラームスは、

そもそもワーグナーに

たいしては偏見がなく、

リストらの「新ドイツ派」にたいする

非難声明では、

そこにワーグナーを含めることに反対し、

《マイスタージンガー》の写譜の

手伝いすらしていたが、

ハンスリックが彼をベートーヴェンの

正当な後継者として持ち上げてから、

ワーグナーから敵と

目されるようになっていった。

また、ワーグナー崇拝者だった

アントン・ブルックナーは、

その音楽の本質とはかかわりなく、

ワーグナー一味と見なされ、

ハンスリックから酷評され続けた。

やがて、このウィーンでの

ワーグナー論争は、ワーグナーの死後、

後ろ盾を失った朴訥なブルックナーを

今度はワーグナー派の若き作曲家

グスタフ・マーラーとフーゴ・ヴォルフが

熱烈に擁護するという

代理戦争にまで発展していった。

引用:吉田真著「ワーグナー」P.109

ブラームス本人の

意図するところではなくとも、

音楽史上でベートーヴェンの正当な後継者と

いわれるようになると、

やはり後継者争いというか

派閥の分派や考えの違いから

対立が生まれるのは世の常でもあろう。

 

ここにおいて単なる派閥の争いではなく、

音楽思想上の対立が、19世紀の音楽の

切磋琢磨となり、結果的に

音楽文化の高みを創っていたと感じる。

真正面から音楽思想を論じ、また

議論を重ねて高みを創っていた時代に

憧れを覚えるのは私だけではないだろう。

 

ヴァーグナーと二十年年下の

ブラームスを軸に十九世紀後半から

二十世紀初期の音楽の歴史は

回転していった。

その回転は他律的美学と

自律的美学の対立に

還元できるほど単純ではない。

ヴァーグナーはともにベートーヴェンを

自身の芸術の理想としており、

いっぽうは指導動機とよばれた

特定の同期の多様な形式と構築で

壮大な楽劇の世界を組み立てていき、

他方は徹底した動機労作をきわめることで

四曲の交響曲や室内楽作品において

ソナタ形式の究極をきわめた。

楽劇と器楽作品という

両者の主要ジャンルの違いはあるものの、

ブラームスはヴァーグナーの創作と

根底において相通ずるものを

認識していたであろう。

引用:西原稔著「ブラームス」P.155

 

共にベートーヴェンを理想としていた

ブラームスとワーグナーの音楽美学は、

古典と革新ということはでは言い表せないが

確実に20世紀の音楽に

影響を及ぼしていったのである。

 

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ブラームスの音楽における霊感

 

ブラームスについて、

ここで特筆すべきは

アーサー・M・エーブル著で

ブラームスが語った

インタビュー本が残っていることである。

 

数多くの音楽家を探究してきたが、

ここまで霊的に音楽家の作曲時の

インスピレーションについて

書かれている本は、

また研究者の推論ではなく

本人が語った言葉として書かれている本は

ほとんどないといえる。

 

「大作曲家が語る音楽の創造と霊感」では

次のように書かれている。

「そこには、内なる魂の力を

照らし出す霊が存在し、

この高揚した気分の中で、いつもなら

不明瞭なものがはっきりと見える。

その時私は、ベートーヴェンのように

霊感を上から引き寄せられるのを感じる。

そんな瞬間、私はイエスの至高の言葉

『わたしと父は一つである』が持つ

途方もない意義を実感する。

この身震いは、私が求めるものについて

望みと意志を明白に述べた後で、

いくつかのくっきりとした

心像の形をとる。

それは霊感に満たされて、

人類の向上に益する音楽を

作曲できるようになること

ー不滅の価値を持つ何ものかを

創り出すことである。

引用:アーサー・M・エーブル著「大作曲家が語る音楽の創造と霊感」P.9

ここで印象的なのは、

ブラームスをはじめとした

西欧の音楽家は、

キリスト教の敬虔なクリスチャンであり

イエスへの篤き信仰のもとに、

作曲の霊感を感じていた

ということである。

 

現代では唯物論が蔓延し

神を信じない人々も多く、

作曲の霊感といっても

伝わらないこともあるが、

19世紀のブラームスの

生きていた時代の前提として

霊的なインスピレーションを

語る土壌があったのである。

 

その回答はただちに直接

神から私に流れ込み、

明確な主旋律から心の眼に

見えるだけではなく、

きちんとした形式や和声や

管弦楽法で表現されている。

一小節また一小節と、完成された作品が

この稀少な霊感に満ちた気分の中で、

私の前に現れる。

ちょうどタルティーニが、

最高傑作のソナタ《悪魔のドリル》を

作曲した時のように。

こうした結果を得るためには、

半ば恍惚状態になければならない。

意識が一時停止し、

潜在意識に支配された状態だ。

というのは、全能者の一部である

潜在意識を通して、霊感が訪れるからだ。

だがこの時、意識を失わないように

気を付ける必要がある。

さもないと

着想が消え失せてしまうからだ」。

引用:アーサー・M・エーブル著「大作曲家が語る音楽の創造と霊感」P.9-10

ここでは

”こうした結果を得るためには、

半ば恍惚状態になければならない。

意識が一時停止し、

潜在意識に支配された状態だ。

というのは、全能者の一部である

潜在意識を通して、霊感が訪れるからだ。”

と説かれている。

 

作曲の霊感を得るためには、

全能者の一部である潜在意識を

通して訪れると信じて、

顕在意識を沈めて

潜在意識を浮かび上がらせることが

必要となる。

 

先ほど話したように、

あの夢うつつの状態になると、

私は恍惚状態で睡眠と

覚醒の間をさまよっている。

意識はまだあるが、

失おうとするちょうど境目におり、

霊感に満ちた着想が湧くのはそんな時だ。

真の霊感はすべて神から発し、

ただ内なる神性の輝きを通してのみ、

神はご自身を顕すことができる。

この輝きのことを、現代の心理学者は

潜在意識と呼んでいる」。

引用:アーサー・M・エーブル著「大作曲家が語る音楽の創造と霊感」P.14

 

ブラームスの語る潜在意識とは、

内なる神性の輝きであり

神の一部からの霊感でもあったのだ。

夢うつつの状態、

潜在意識と顕在意識の間を

さまようような状態は、

深い瞑想のなかにあるときや

眠りから覚めようとするときなどに

見られるが、

作曲の際にもそんな状態に

なる時があるということだ。

 

私は無神論者の若い作曲家を

何人か知っている。

彼らの総譜を見たこともある。

ヨーゼフ、請け合ってもよいが、

彼らはたちまち忘れ去られる。

まったく霊感に欠けているのだ。

彼らの作品は純粋に知性によっている。

かの偉大なナザレ人も

あの法則を知っており、

<ヨハネ>十五・四でこう断言しているー

『ぶどうの枝が、

木につながっていなければ、

自分では実を結ぶことができない』。

無神論者がこれまで

大作曲家になったためにはないし、

これからもないだろう。

引用:アーサー・M・エーブル著「大作曲家が語る音楽の創造と霊感」P.31

 

19世紀に生きたブラームスから見れば、

無神論者の音楽はまったく霊感に欠けている

と語っている。

知性や感性のみで作った音楽と、

霊感に満ちた音楽とでは、

神を信じる人には

違いは判るはずである。

 

無神論者が大作曲家になることはない

という記述は、

現代に生きる私たちにも

当てはまるのではなかろうか。

 

君の本の読者が作曲中の私の体験から

得るものがあるとすれば、

エーブルさん、芸術のもう一つの側面を

大いに強調しなければならない。

それはプライバシーだ。

仕事中さえぎられず邪魔されないという

確信がなければ、

作曲を思い立つことなどできない。

ウィーンのこの家では、

家主で世話役のトルクサ夫人が、

私が仕事中絶対に邪魔されないように

気を配ってくれている。

詩神は十戒のエホバ神のように

実にねたみ深い存在で、

ほんの少しでも怒らせようものなら

飛び去ってしまう。

かつて邪魔の入ったことが

何度かあったが、破滅的な結果を招いた。

引用:アーサー・M・エーブル著「大作曲家が語る音楽の創造と霊感」P.90

 

またブラームスは

作曲の際の重要なポイントとして、

誰にも邪魔されない環境を挙げている。

 

作曲する際に恍惚状態に入るほどの

霊感を感じ取ろうとするなら、

その状態を邪魔するものは

避けなければならない。

例えば電話、インターフォン、

突然の訪問者など。

 

そしてブラームスの感じ取った

曲の着想は、このように表現されている。

あの高次の宇宙的な霊気を感じると、

かの大詩人やバッハ、モーツァルト、

ベートーヴェンに霊感を与えた同じ力と

触れ合っているのがわかる。

その後で、意識しつつ求めていた着想が

かなりの力と速さを伴って

流れ落ちてくるが、

つかもうとするのが精一杯で

一部しか覚えていられない。

すべて書き留めるのは絶対に無理だ。

一瞬輝いたかと思うと、

紙に書いておかなければ

たちまち消え失せてしまう。

私の作品に残る主題というのは、

すべてこんな具合にやってくる。

それは常にあまりにも

驚くべき体験であり、

今までは誰にも話す気にならなかった。

引用:アーサー・M・エーブル著「大作曲家が語る音楽の創造と霊感」P.103-104

高次元の音楽家の意識と

一体となっているような感覚のときに

曲の着想が一瞬に流れ込むような

輝きを持ち、その一瞬にすべてが

こめられているということだ。

この着想を楽譜に書き起こしておかないと

たちまち消えてしまう。

 

ブラームスの主題を含む楽曲は、

すべてこのような霊感に基づいて

作曲されると語られている。

 

ブラームスのヴァイオリン協奏曲

 

最後に、ベートーヴェン、

メンデルスゾーンと並んで

三大ヴァイオリン協奏曲といわれる

ヴァイオリン協奏曲 ニ長調

(Violinkonzert D-Dur) 作品77

を紹介したい。

 

この楽曲はブラームス唯一の

ヴァイオリン協奏曲であり

45歳というブラームスの

創作活動の最盛期ともいえる時期に

書かれている。

ヴァイオリニストの

超絶技巧を必要とする楽曲でもあり、

ヨアヒムはこの楽曲に数々の助言を行ったが

ブラームスは受け入れた助言と

そうでないものがあったといわれる。

 

霊感に満ちたブラームス唯一の

ヴァイオリン協奏曲をお聞きいただきたい。

 

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ありおん

Aoide Production代表。”文化の創りかた”ブログ管理人。 Vyond、Premiere proで動画制作|HP制作|楽曲制作|ブログ|新しい文化をカタチに!仕事依頼はAoideProductionホームページをご覧ください。

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