今日は、ベートーヴェンの「運命」に
込められた魅力について
探究してみたい。
ベートーヴェンの少年時代
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
(1770年~1827年)に
神聖ローマ帝国ケルン大司教領(ドイツ)の
ボンにおいて、
父ヨハンと母マリアの第2子として誕生した。
祖父ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
(同姓同名)がボンの宮廷楽長として
影響力があり、ベートーヴェン一家は
祖父の援助により生計を立てていた。
ベートーヴェンの父ヨハンも宮廷歌手
(テノール)だったが、
無類の酒好きで収入も途絶えがちで、
子供たちへの音楽教育はスパルタであり、
あのベートーヴェンが
音楽に嫌悪を覚えるほどだったそうだ。
そんなベートーヴェンに転機が訪れる。
ベートーヴェンの人生のなかで
最初の重要な師となる
クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ
との出会いである。
ボンの宮廷楽団の宮廷オルガニストであった
ネーフェのルポタージュには11歳の
ベートーヴェンについてこのように書かれている。
「前期テノール歌手の息子ルイ・ヴァン・
ベートーヴェンは、十一歳ながら
有望な才能の持ち主だ。
クラヴィーアを巧みかつ力強く演奏し、
初見視奏にも優れている。
ネーフェ氏が課したセバスティアン・
バッハの≪平均律クラヴィーア曲集≫を
弾きこなしている。
音楽芸術の最高の作品といってよい
すべての調によるこの曲集を知っている
者にとって、このことが何を意味するかは
お分かりであろう。
ネーフェ氏は職務時間の許す限り、
彼に通奏低音奏の指導も行っている。
ネーフェ氏は、少年の励みとなるように、
与えた行進曲主題
(エルンスト=クリストフ=
ドレスラーによる)
に基づいて作曲したクラヴィーアのための
九つの変奏曲をマンハイムで出版させた。
この若き才能には旅行のための援助が
必要であろう。
これまで通り進歩成長し続けてゆけば、
必ず第二のヴォルフガング・アマデウス・
モーツァルトになるであろう」
引用:平野昭著「ベートーヴェン」P.14
バッハの有名な≪平均律クラヴィーア曲集≫を
弾きこなし、巧み克力強い演奏で
稀有なる才能を示していると、
ネーフェは大いにベートーヴェンを
高く評価していたようだ。
このまま成長していけば、
「必ず第二のヴォルフガング・
アマデウス・モーツァルト
になるだろう」
とまで言わしめた
少年ベートーヴェンの才能と、
その才能を見抜き、
期待をかけたネーフェという
師弟関係から
徐々に道が開けていったのである。
音楽芸術の保護者との誉れ高いマックス・
フランツであるが、選帝侯就任直後の
一七八四年六月に財政立て直しのために
国民劇場を閉鎖し、宮廷楽団の縮小や
楽師のリストラ、さらに宮廷楽長代行の
ネーフェの年俸四〇〇フローリンを
二〇〇フローリンに
大幅減給までしている。
(ただし、翌年に以前と同額の四〇〇
フローリンに復活している)。
その一方で、一七八四年に前選帝侯に、
ネーフェの推薦辞を付して提出されていた
ベートーヴェンの正式宮廷楽師承認請願を
認めてもいる。
六月二七日付で発令された
「宮廷礼拝堂及び宮廷楽団楽員年俸一覧」
のベートーヴェンの欄に
「年俸百五十フローリンの
宮廷第二オルガニスト」
と記載されている。
この年俸百五十フローリンは、
師ネーフェの年俸が
二百フローリン減給になった分から
回された形でも
あったのだろう。
ベートーヴェンはネーフェに
感謝してもしきれない
恩恵を受けたのだ。
後に「私が神聖なる芸術において
進歩するように、
先生が私にお与えくださった助言には
心より感謝いたしております。
もし私が立派な人間になれたなら、
その成功は先生のおかげでもあります。」(BB6)
と、ぎこちない文章ながらも
師ネーフェへの
感謝の意を手紙で表わしている。
引用:平野昭著「ベートーヴェン」P.18
ケルン選帝侯マキシミリアン・フリードリヒの
他界により、後任として任命された
マックス・フランツ選帝侯は、
ボンの宮廷楽団の立て直しをはじめ、
宮廷オルガニストのネーフェの年俸を
半分に下げてまで、
宮廷第二オルガニストとして
ベートーヴェンを雇うことに決めた。
なぜなら、ベートーヴェンの雇用を
フランツ候に推薦していたのは、
師ネーフェだったからである。
ベートーヴェンは
師ネーフェの引き立てを受け、
宮廷第二オルガニストとしての
職を得ることになったのである。
難聴と闘うベートーヴェンの「運命」
そして16歳の時、はじめてのウィーン旅行で
モーツァルトの即興演奏を聴く。
その後も音楽家として成長し、
諸国を周りながら演奏旅行をして
名声を得ていった
ベートーヴェンであったのだが、
20代後半から、持病となっていた難聴が
人生を狂わせ始める。
音楽家として名声を得て活躍していきながら、
同時に耳が聴こえなくなっていくという、
音楽家にとって一番大事な聴覚を失う苦悩は、
ベートーヴェンが1802年に残した
『ハイリゲンシュタットの遺書』のなかに
垣間見ることができる。
「ー私は実に悲しい生活を
しなければならぬ。
この耳が聴こえたら、
どんなに幸福だろう。
私はすべての人を
避けていなければならぬ。
悲しい諦め、
ー基処に逃げ込まなければならぬ―」と。
またこうも書いた、
「私はしばしば私という存在を
造物主に呪った。
私の生活は神の造り給うものの中で
最も惨めだ」ーと。
我も人も許した第一流の音楽家が
次第に聴覚を失いつつあるのである。
世の中にこれほど恐ろしいことは無い。
引用:あらえびず著「クラシック名盤 楽聖物語」P.93
自分という存在を、造物主に呪うほど、
なぜ神は私にこのような苦難を
与えられたのかー
このいくら逃げても追ってくる命題と
向き合うことは、
絶望にも等しかったにちがいない。
手紙の形をとったこの苦悩の告白は、
自ら生命を絶つことを前提にした
「遺書」などではない。
文中に「徳のおかげで、また私の
芸術のおかげで自殺によって一生を
終わらすようなことをせずに済んだ」
とある。
ただ、この告白には多くの矛盾する
言葉も散見される。
六日の手紙では、弟ふたりの幸せを祈り、
友人たちに愛と感謝を述べてから
「私は喜びをもって死に赴くのを急ごう」
と断言した直後に
「もし私が自分の芸術的能力をすべて
開花させる前に死が訪れるとしたら、
それが私に与えられた
厳しい宿命だったとしても、
それはあまりに早すぎるというもので、
私はその訪れがもっと
遅ければと願わずにはいられない」と
激しく揺れ動く心情をもたらしている。
死がいつ来るにしても
「(今の)終わりのない苦しみから
解放されないことはない」という一行は、
死による救済を求めるかのような
弱音も窺わせる。
それでも「死よ、望むときに来るがよい、
私はお前に勇敢に立ち向かうだろう」
という死の恐怖と闘いながら強く
生き抜こうとする意思表明の
言葉が優勢である。
引用:平野昭著『ベートーヴェン』P.65
耳が聴こえなくなる恐怖、
そして死の恐怖と闘いながら、
芸術的能力を開花させ、
多くの人々に自分の音楽を届け、
その魂を鼓舞していくことを願い続けた。
この魂の苦悩と逆境との対決の生きざまが、
ベートーヴェンの音楽に魂の輝きを与え、
生命力を与え、
その精神力から不屈の闘志を与えてくれる。
ベートーヴェンの交響曲第5番『運命』の魅力
ベートーヴェンの交響曲第5番『運命』は、
「運命の動機」(運命のモチーフ)と言われる
主題から始まり、
「障害を乗り越えて勝利を勝ち得る」という
ストーリーに込められたハーモニーは
時代が変わっても人々を魅了し続けている。
この交響曲はベートーヴェンの命名ではなく、
弟子シンドラーが交響曲の主題について
「運命はこのように扉をたたく」と
ベートーヴェンから聴いたことに由来する。
ベートーヴェンが苦難と対決して
勝ち取ったその魂の光が、
音楽という形で音符のなかに込められ、
時代を超えて
多くの人々の苦悩と悲しみを癒し、
魂を鼓舞するのである。
一方、十日に書かれた追伸の文面からは、
ほとんど精神的な乱れの中で
書かれた様子が窺える。
「本当に長い間、真の喜びを心で
感じることはなかった。
おお、いつ、おお、いつなのだ、
おお、神よ、自然と人間がつくる
この世で私がそれを感じることのできる
日がくるのだろうか、絶対にこないのか、
もうだめなのか、おお、
それではあまりにも酷だ」
と結ばれている。
引用:平野昭著『ベートーヴェン』P.65
ベートーヴェンとて人であり、
悟りすました楽聖ではなく、
苦悩と困難の中を
不屈の闘志で
戦い抜いた音楽家であり、
その生きざまが美しいのだ。
絶望と孤独が、さんざんに大きな魂を
さいなみ続けた末、巨人は豁然として
大悟したのである。
それはプルターク英雄伝から
教えられた思想であった。
「ー人は何かしら、善いことの
出来るうちは、自分で自分の命を
絶ってはいけないー」と。
即ちベートーヴェンはその使命の
高遠さと、芸術の不滅を信じて、
辛くも自殺を思い止まったのである。
運命と人間との闘争を描いたと云われる
「第五シンフォニー」は
此のころ作られた。
辛辣過酷な運命のしいたげの下に、
か細きうめきを挙げる人間が、
その意志の力を以て、
遂に運命に打ち克ち、
勝鬨も高らかに
最後の勝利へと突き進むのが、
この曲の内容である。
引用:あらえびず著「クラシック名盤 楽聖物語」P.94
絶望と孤独のなか、豁然として大悟し、
自殺を思いとどまったといわれる。
辛辣過酷な運命に対して、
呻きを挙げながらその意志の力で
運命に打ち克つ人間の精神を
音楽で表わしたら、
「運命」となったのであろう。
私もそういう思いで
改めて「運命」を聴いてみると、
本当に心の琴線に触れて涙する場面があった。
交響曲第5番「運命」は西洋音楽史の
革命と言える作品です。
ここでベートーヴェンは
”小さな細胞をくみ上げていき、
作品を構築する”とうハイドンが用いた
手法をさらに発展させ、
一つの交響曲を作り上げました。
小さな細胞とは、譜例に括弧で示した
「(ン)タタタ・ターン」という
たった4音の動機
(リズムとメロディー)です。
ちなみに「タタタ」という3つの音は
フリーメイソンで重要視される
数字「3」に通じるとも言われます。
これが第一楽章502小節中に
245回も出てきます。
聴いても同じだとわからないところが
ベートーヴェンの技です。
作曲家は、決して思い付きではなく、
ロジックの積み重ねで
楽曲を書いていくのです。
引用:三枝成彰著『驚天動地のクラシック』P.93
またベートーヴェンは曲の着想、
理念だけでなく
ハイドンの手法を発展させた
西洋音楽史の革命と言える
作品でもあるそうだ。
人生最大の苦難、逆境と闘った
ベートーヴェンの人生を
思い起こしながら、
また自分の人生の苦難を思い返しながら
「ベートーヴェン交響曲第5番【運命】」を
聴いてみていただきたい。
ベートーヴェンの「運命」と時代精神
最後に、ベートーヴェンと
ゲーテの逸話を紹介しておきたい。
ベートーヴェンが二年続けてテープリッツ
を訪れた理由のひとつが実現する。
ゲーテとの出会いだ。
すでにベッティーナ・ブレンターノ
(フォン・アルニム)を仲介として
ふたりの偉大な芸術家の邂逅が
準備されていた。
ゲーテがこの地に到着した四日後の
七月十九日から三日間にわたって
ふたりは芸術談義に花を咲かせ、
近隣の景勝地ビリンの散策を楽しんだり、
夕べにはベートーヴェンの
ピアノ演奏を楽しんだりしている。
ゲーテはこの出会いの晩に妻宛てに
「あのように集中的で、
エネルギッシュで、
しかも内省的な芸術家には
かつて会ったことがない」といった
内容の称賛と感動の手紙を書いている。
引用:平野昭著『ベートーヴェン』P.131
ベートーヴェンはゲーテと出会い、
芸術談義に花を咲かせ、
ゲーテの詩に楽曲を付けたりしている。
もしベートーヴェンとゲーテの
芸術談義が聴けるのなら、
ぜひ一部でも聴いてみたいものだ。
ベートーヴェンは、音楽史上初めて
音楽を”芸術”とし、音楽家を
”芸術家”と呼んだ人です。
今までなかったことをしているか?
”その時代の精神”を反映しているか?
彼の曲作りはそれが大切でした。
「運命」では、三楽章にスケルツォ
(三拍子の軽快な舞曲)を導入したり、
宗教曲の楽器だったトロンボーンや
ピッコロ、コントラファゴットを使い、
交響曲の可能性を広げました。
彼は、自分で楽曲に「作品番号」を
付けた初の作曲家です。
番号のないものは、
後世に残したくない作品なのでしょう。
また、彼が古典派音楽の
最大の特徴である「ソナタ形式」の
大成者として数々の傑作を
残したことも特筆すべき点です。
引用:三枝成彰著『驚天動地のクラシック』P.92
ベートーヴェンはまた、
その時代の精神を反映することを
大切にしていた音楽家であった。
その時の”時代精神”たる
ナポレオンに関する楽曲を作ったり、
その時代の空気を、
精神を音楽に表し、
作品として残す
ということを試みた
稀有なる音楽家だったと言える。
ベートーヴェンは「人生の為の芸術」の
最初のスタートを開いた音楽人である。
ベートーヴェン以前の音楽は、
形式の整頓と、限りなき美しさの
欲求の為に書かれた、多分に
娯楽的要素を含む音楽が主流であったが、
ベートーヴェンに至って、
音楽に人生観と哲学とを採り容れ、
自己の精神内容と経験とを、
直ちに音楽的表現に役立てて、
切れば血の出るような曲を
作ったのである。
ベートーヴェンにおいては、
生活は即ち音楽であり、
音楽は即ち自伝であった。
その作品を「金のために書かない」と
ベートーヴェンは豪語したが、
むしろ、技巧や作為のために書かなかった
と言ったほうが適当かもしれない。
彼の音楽はそれぞれの書かれた
時代の心境の反映で、たった一つも、
「拵え物」は無く、悉くが生命の宿った、
血の通う音楽であったからである。
引用:あらえびず著「クラシック名盤 楽聖物語」P.94
ここに書かれているように、
ベートーヴェンの音楽は人生観と哲学、
自己の精神と生きざま、魂のすべてを
音楽という音符に記して
切れば血の出るような曲を作った。
音楽は即ち人生であり
時代精神の反映であり、
魂の宿った芸術であったのだ。
また再び、
時代精神の反映を表現するような
音楽家の登場を切に願う。
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