今日は、チャイコフスキーの生涯を紐解いて、
どんな人生を送り、その生涯から
なぜ彼の音楽のような美しい、
そして悲しい音楽が生まれたのかを
探究してみたい。
チャイコフスキーの生い立ちから青年期まで
1840年5月7日、
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーは
ロシアのウラル地方ヴィトキンスクで
次男として生まれた。
父は鉱山技師で工場長の
イリヤ・ペトローヴィチ・チャイコフスキー、
母はアレクサンドリアといい、
18歳年下のイリヤの二人目の妻であった。
母は鋭い感受性の持ち主であり、
その感受性はピョートルにも
受け継がれたといわれる。
1844年、4歳の頃
父が持ち帰ったオーケストリオンが奏でる
モーツァルトやロッシーニなどの
イタリア音楽に夢中になった。
幼少時から音楽的才能を示したが、
10歳の頃、両親は
帝室法律学校の予科に入学させる。
この法律学校ではオペラの作曲や
聖歌隊でも活躍し、
音感と美声を認められたという。
1854年、14歳の頃、母アレクサンドラが
コレラで天に召される。
母を失った衝撃と悲しみから、
より音楽にのめり込むようになるが、
対人関係の矛盾した衝動や
同性愛の傾向も
法律学校時代に根付いたようだ。
19歳で法律学校を卒業した後、
法務省に勤めることになる。
法務省で働いていた
1861年秋、知人が披露した
演奏の巧みな転調に衝撃を受け、
「どこで学んだのか?」と尋ねた。
その縁から、
帝国ロシア音楽協会(RMO)を知り、
その後音楽を本格的に学ぶことを
決意したチャイコフスキーは、
ペテルブルグ音楽院(RMOから改編)に
入学する。
そこで出会ったのが、
恩師アントン・ルビンシュタインである。
33歳でペテルブルグ音楽院を創設した
アントン・ルビンシュタイン院長は、
絶対的、高圧的な態度で厳しく指導する
恩師であった。
チャイコフスキーは
繊細なプライドが傷つきながらも
厳しい指導を受け学びを深めていった。
結局4年間で法務省を休職し、
音楽家の道を歩むことになる。
ペテルブルグ音楽院を
第1期生として卒業した後、
アントンの弟ニコライのもとで
音楽教師として音楽理論を教えることとなる。
当時25歳、モスクワ音楽院の
音楽理論、和声、
作曲の講義を担当し、
以後12年間で400名以上を教えた。
27歳の頃、
フランスの作曲家ベルリオーズが
ロシアで演奏会を開いた際、
7か国語が堪能なチャイコフスキーは
ベルリオーズにフランス語で
賛辞をおくった。
チャイコフスキーと二人の女性<メック夫人とアントニーナ>
28歳の頃、5歳年上の
オペラのプリマドンナ
デジーレ・アルトーに強く魅了され、
相思相愛で婚約まで漕ぎつけた。
だが周囲はこの結婚を心良しとせず、
結婚は才能をダメにするとアントンも
ニコライも止めに入った。
そのうち巡業のためアルトーが
ワルシャワに出発。
ある日突然別の男と結婚したと
ニコライに知らされ、
チャイコフスキーは衝撃を受けた。
この深い悲しみのなかで
また音楽に没頭していく。
その後、愛していた4歳年下の
青年ザークがピストル自殺し、
打ちひしがれた悲しみから
創作に打ち込み、
弦楽四重奏曲第二番、
そしてピアノ協奏曲第1番を
書きあげた。
このピアノ協奏曲第1番を
ニコライ・ルビンシュタインに
弾いてほしいと依頼したが酷評され、
ハンス・フォン・ビューローに献呈。
ハンス・フォン・ビューローの初演が
大成功し、各地で
この曲の評価が高まったのち、
ニコライも酷評を撤回したという。
そしてチャイコフスキーの生涯に
大きく影響を与えた
女性が二人。
1人は、熱烈なファンでパトロンとなった
ナジェージダ・フォン・メック夫人。
チャイコフスキーが50歳となり
支援を打ち切るまで経済支援を続け、
768通もの手紙で文通して心を通わせた
最大の支援者の一人である。
ここでメック夫人に宛てた
手紙の一つを紹介したい。
「作曲とは血の通わない知性の働きに過ぎない」と、あなたを説得しようとする人の言葉を、どうか信じないで下さい。わたしたちの心にふれ、感動させることのできる音楽はただひとつ、霊感のおとずれによって作曲家の魂の底からあふれだしたものだけなのです。この霊感という「客」は、一度さそえば、いつでもやってくるというものではありません。わたしたちは、たえず仕事をしなければならないのです。自尊心のある芸術家は、気分がのらないからと言いわけをして、手をこまねいていてはいけないのです。もし、自分で気分を呼び寄せる努力をせずに、やる気になるのを待っているだけなら、人はすぐになまけたり、無感動になったりします。」1878年3月 フォン・メック夫人にあてたチャイコフスキーの手紙
引用:マイケル・ボラード著「チャイコフスキー」P.125
チャイコフスキーは、
感動させることの出来る音楽は、
霊感のおとずれによって
作曲家の魂の底から
溢れ出したものだけ
と書いている。
勤勉に作曲を続けた
チャイコフスキーにとって、
霊感によって魂の底からあふれ出した
メロディーを紡ぎ出すことを
何よりも大事にしたのである。
もう一人は結婚相手となった妻
アントニーナ・ミリューコヴァ。
貴族令嬢であったアントニーナからの
熱烈なラブレターを受け取った
チャイコフスキーは、
その頃別の愛に悩みつつ、男として
結婚しなければならないという
念いにとらわれていた。
「結婚してくれなければ死んだほうがまし」
というほどに迫られたチャイコフスキーは、
様々な念いを抱きつつ
アントニーナに求婚する。
しかし、この結婚が不幸の始まりであった。
一緒にいることが耐えられないほど
精神が衰弱し、自殺未遂までしてしまう。
結局、20日で別居、2カ月後に
離婚を申し出ることになった。
(結局、その後も支援し続けることになる)
この結婚の絶望的な破局の後、
この苦悩のなかで交響曲第4番を書き始める。
そしてメック夫人に
3000ルーブルの借金を申し込む。
メック夫人は
「これから頼って・・返済は考えないで」
とすぐさま応じ、その1877年以後
毎年6000ルーブルの支援を続けるのである。
1878年、38歳の頃
モスクワ音楽院を辞職し、
名実ともに音楽家として
自由に作曲できる環境を手に入れる。
その後、
西欧への指揮旅行や
アメリカへの指揮旅行なども経験。
バレエ音楽では
「白鳥の湖」
「胡桃割人形」
など歴史に残る名作を作曲した。
ここで、チャイコフスキーの
音楽の良さについて
書かれている一節を紹介する。
チャイコフスキーの音楽の良さは、誰にでも理解される悲哀の美しさを描いた点である。彼の憂鬱さは、幾分世紀末的であったにしても、邪念も、誇示も、粉飾も、小細工も無い正直さと、そのむき出しの哀愁は、人の心に犇々と浸透して已まない。「胡桃割」や「第四交響曲」のような明るい曲を書いても、チャイコフスキーには、覆うことの出来ない悲哀感がその底に流れているのである。
あらえびす著『クラシック名盤 楽聖物語』P.242
チャイコフスキーの音楽を聴いた人なら、
誰にでも理解できる悲哀の美しさを描いた点、
覆うことの出来ない悲哀感が
その底に流れる音楽
という表現は理解できるだろう。
50歳の頃、
メック夫人から突然の
支援打ち切りの交流を
辞める旨の連絡を受け、
深い悲しみと憤りに襲われる。
心の内を手紙に託し、
何でも打ち明け合った
メック夫人との
交流が絶たれたことは、
その後の作曲活動に
ひどく影響を及ぼした。
チャイコフスキーの『悲愴』解説ー人生の苦悩と悲哀
53歳で
交響曲第6番「悲愴」を
作曲するが、
そもそもの当初は
「表題交響曲」と呼んでおり、
「今計画中の交響曲の
究極の神髄は人生である」
と言っていたという。
第一楽章:すべての情熱、自信、活動への渇望
第二楽章:愛
第三楽章:失望
第四楽章:死
当初の構想から大きく改変されて、
結局交響曲第6番は「悲愴」と名付けられる。
この交響曲はチャイコフスキーの人生にとって
集大成ともいえる作品であり、
最後の第四楽章の死に至る人生の苦悩が
音楽によって記されているのである。
1893年、53歳の時、
この交響曲第6番「悲愴」は
チャイコフスキーの指揮によって
初演される。
この初演の感動を記した文章を紹介する。
ロシア国民学派の理論的指導者スターソフは、このときの感動をつぎのように書いたー”それは絶望のはげしい号泣にほかならない。まるで「ああ、私は何のために生きてきたのか?」と終楽章の旋律にいわせているようだ。この交響曲の気分は恐ろしい、苦しい気分である。ここに表現されている、しかも原因不明の精神的苦痛を、その生涯にわたってなめなければならなかった一人の人間、一人の芸術家にたいする苦しい同情を、きくものに経験させるのだ。しかもこの交響曲はチャイコフスキーの最高無比の作品である。精神的苦悩、消えゆく絶望、人間がさいごの瞬間までそれにすがって生きてきた一切をうしなうというわびしい、さいなむような感じが、ここに力強く、突きさすような感動をもって表現されている。おそらく、このようなものは、音楽の中でかつて一度も描かれたことはなかったし、精神生活のこのような深刻な場面が、このような非凡な才能と美しさで表現されたことはなかった”
引用:園部四郎著「チャイコフスキー 生涯と作品」P.310
交響曲第6番は「悲愴」第4楽章は、
ここに記されている通り
死に至る絶望のような感情を
表現していると感じられる。
百聞は一見(一聴)にしかず、
交響曲第6番『悲愴』第四楽章を
ぜひ聴いて頂きたい。
人生の悲劇や苦悩、そして絶望を
音楽の旋律で奏でる第4楽章は、
人生の苦悩を経験した人なら誰でも
感じ取ることができるほどの
悲愴感が旋律で伝わってくるのである。
この曲はチャイコフスキーの生まれながらの憂鬱の総勘定であり、高度の悲劇的緊張を以って終始したものであり、人の知らない苦痛への掘り下げであり、人間のあらゆる希望に終わりという封印を捺したものであると言われて居る。このシンフォニーを聴く者は、どんな絶望と悲歎に沈湎する者でも、「まだしも自分は幸福であった」と感ずるであろう。チャイコフスキーの悲歎は、それほど深刻にして救いの無いものだったのである。
あらえびす著『クラシック名盤 楽聖物語』P.242
交響曲第6番「悲愴」の初演のわずか9日後、
数日前にレストランで飲んだ生水が原因の
コレラ、併発した肺水腫により亡くなった。
チャイコフスキーの死には謎が多く、
ソビエト連邦崩壊前は情報も少なく
自殺説も唱えられていたが、
現在はコレラ説が有力とされている。
自己告白の交響曲として最高無比ともいうべきこの作品は、チャイコフスキーの思いがけない死によって、その深い内容をひときわ強くこの曲をきく人々の心に伝えたのであった。しかし、もちろん、これは単なる孤独な魂の悲哀といった主観的・心理的側面だけを表すものではなかった。それはあらゆる種類の社会的抑圧に対立するヒューマニスチックな個性の闘争をしるした、生きた偉大な記念碑であった。この曲の偉大さ、この曲の不朽性、この曲がこんにちわれわれの胸に言い知れぬ感動をあたえる秘密もそこにあるというべきであろう。
引用:園部四郎著「チャイコフスキー 生涯と作品」P.310-311
チャイコフスキーは人生を通して
愛における苦しみと悲哀、絶望を経験し、
その感情と苦悩を憂いを含む
美しいメロディーへの昇華した。
自身の指揮で「悲愴」交響曲
第6番第4楽章まで初演し、
自らの人生のレクイエムを
演じきったかのような
最期は、その後の時代を生きる
音楽家や人々に大きな影響を及ぼした。
祖国ロシアへの愛とロシア文学
1876年12月、
ニコライ・ルビンシュタインの開いた
ソワレで、文豪トルストイと初めて会う。
トルストイは、チャイコフスキーの隣に座って
<アンダンテ>という曲の演奏を聴き
涙し、ロシア民謡を題材に
曲を作ってほしいと伝えたという。
もう一つの論点として、
19世紀ロシアとの関わり
についての一節を紹介したい。
こうした人々の生活から生まれる感情、こうした人々の魂の叫びのなかにただようものは深い哀愁であった。プーシキンの、またチャイコフスキーの哀愁ーツァーリズム(ロシア専制政治)の息も詰まる空気のなかに、人間への深い愛情、生命へのやみがたい執着、漠然とではあるが、何かしら理想を待ち望む魂の真剣な叫びではなかったろうか?
だからこそ絶望的な暗い悲しみの中にも、何か明るい光が、ほんのりと、またときにはむしろあざやかに輝くのを私たちは感じるのであろう。チャイコフスキーの哀愁は、安っぽい涙をさそうセンチメンタリズムではない。それは魂のそこ深くえぐる悲哀であり、感動である。チャイコフスキーの哀愁の美は、この世に不幸と不運と悪がぬぐいきれない間は、これらの運命とたたかう人々の心に強く訴えるものを持ち続けるであろう。
引用:園部四郎著「チャイコフスキー 生涯と作品」P.10
19世紀のロシアは
トルストイや
ドストエフスキーなどの文豪が出て、
ロシア文学の高みを創ったが、
その時代性と悲劇性は
チャイコフスキーの音楽と共通する部分が
あると感じる。
ツァーリズム(ロシア専制政治)の
空気のなかで、
民衆がどのような苦悩と
わずかな希望を持ちながら
生き抜いていったか。
チャイコフスキーはロシア民謡を
取り入れた曲も作っており、
西欧で人気を博して
楽譜出版を依頼された際も、
ロシアの出版社経由でないと
出版しないと断ったほど、
祖国ロシアを愛する人でもあった。
その時代におけるロシアの民の感情を
チャイコフスキーが表現した部分も
あったのではないだろうか。
チャイコフスキーの音楽における悲哀と光明
最後に、チャイコフスキーの
西洋音楽における位置づけについての
評論を紹介したい。
この意味に於いてバッハ以来の高度に発達した西洋音楽の分野においても、チャイコフスキーほど人間らしい存在はなく、チャイコフスキーの音楽ほど、我等に親しいものは無い。チャイコフスキーの音楽に、一脈の大衆性のあるのは、その音楽の低俗さの証明ではなくて、反って、気高さの結果であり、優れたるものの一般性の為であると言っても差支えはない。彼の「憂鬱の全音階を支配した」と言われた絶望の音楽の底には、言うに言われぬ温かさがあり、その悲歎と慟哭のうちには、大きな光明への予感が芽ぐむのである。
あらえびす著『クラシック名盤 楽聖物語』P.234-235
「憂鬱の全音階を支配した」と言われた
絶望の音楽の底に光明への予感が芽ぐむ
とは、なんと的を得た表現で
あろうかと感じる。
たしかにチャイコフスキーの音楽には
一脈の大衆性、
万人受けするメロディーがあり、
その抒情的な美しいメロディーから
人間の人生の悲哀が胸に迫るほどに
感じ取れるのである。
バッハの神性は凡人に近づき易いものではなく、ベートーヴェンの激情は、一般大衆の経験を遥かに絶したものである。しかし、わがチャイコフスキーの悲哀と絶望感にいたっては、何人も想像し得る境地であり、経験し難しからざる感情である。我等は実生活に於いて、悲しんで悲しみの底を嘗め尽くし難き生温かさを、チャイコフスキーの芸術を介することによって、はじめて悲哀のドン底を衝き、浄化された悲哀の美しさを味わうことが出来るのである。チャイコフスキーの音楽が万人に愛せらるるは、万人の経験し易くして実は達し難き感情の極致を、極めて容易に、そして極めて美しく描き出した為ではなかったであろうか。
あらえびす著『クラシック名盤 楽聖物語』P.235
チャイコフスキーの
芸術を介することによって、
悲哀のどん底を共に味わい、
その浄化された美しさから
魂の底の光明も垣間見るような
体験をすることが出来るのかもしれない。
悲しみの底にある魂の光のような
メロディは、今もなお
多くの人々に愛され続けている。
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