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メンデルスゾーンによるバッハ《マタイ受難曲》復活上演の音楽史的影響

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今日は、フェリックス・メンデルスゾーンに

ついて探究したいと思う。

 

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メンデルスゾーンの生涯と多面的才能

フェリックス・メンデルスゾーン

(1809年 - 1847年)は、

北ドイツの港町である

ハンブルクで、

銀行家アブラハム・メンデルスゾーン

の長男として生まれた。

その幼少時は、裕福で愛情と教育の行き届いた

家庭に育ったようだ。

メンデルスゾーンはその短き生涯を

通して、音楽家としては珍しきまでに

幸福であった。

一八〇九年二月三日ハンブルクの

富裕なる銀行家

アブラハム・メンデルスゾーンの長子

として生まれたフェリックス

(Felix Mendelssohn-Bartholdy)は、

この世の幸運を一身に背負って、

満ち足りた愛情と、行き届きすぎる

ほどの教養のなかに育ったのである。

彼が三歳の時、一家はナポレオンの

戦禍にみまわれてベルリンに移住し、

よき母の慈愛の下に、一流中の

一流大家数名を家庭教師とし、

姉のファニー、妹のレベッカと共に、

お伽噺の中の王子のように

成人したのであった。

これを貧しい小学校教師の子として

育ったシューベルトや、

酒乱の貧しい音楽家の子

ベートーヴェンと比べて、

何という凄まじい違いであろう。

引用:あらえびす著「クラシック名盤 楽聖物語」P.138

私はメンデルスゾーンの生涯を探究してみて、

他の音楽家とはどこか何かが違うようで、

満ち足りた幸福な幼少時代と

欠点が指摘できないほどの

早熟で優秀な天才でありながら、

どこか人物像としてつかみどころのない、

不思議な感覚に打たれたのである。

 

世の中には、このような人もいるものかと、

庶民的感覚の私としては

思ってしまったりしたのだが、

この影の無さと多面的な業績は、

魂が大きいから個性がつかめないのではないか

と感じるに至ったのだ。

メンデルスゾーンの音楽には、

何等苦渋の痕がなく、

明朗、快適、清純、華麗、

美し過ぎるほどの美しさと、

整い過ぎるほどの彫琢とを

持っているのは、

まことにこの境遇から由来する

影響と言ってよい。

世にはメンデルスゾーンの音楽を

好まないと提言する者は必ずしも

少なくないが、其人達は恐らく、

もう少し陰影の濃やかな音楽、

感情の爆発を伴う音楽、

或いはイデオロギッシュな音楽、

悲観的な音楽を好む為であろう。

しかし、一方練達な老成人の中には、

「齢を取って初めてメンデルスゾーン

の良さが解る」と言う人も、

なかなかに少なくはないことも

記憶しなければならない。

引用:あらえびす著「クラシック名盤 楽聖物語」P.139

整い過ぎた美しさと、

陰影の無い華麗な音楽は、

感情の起伏のある音楽に慣れている

自分からは遠い音楽に感じてしまう

という点で、

とっつきづらいのではないかと

考えてみた。

 

しかし、この早熟の天才は、18歳の頃には

すでに完成された交響曲を書き、

音楽家のみならず生涯を通して

多くの人々に影響を与える仕事をした

という意味において、

若い時から志や使命に目覚め、

生涯を使命に捧げた人、

使命に生きた人だった

のではないかと

感じずにはいられない。

メンデルスゾーンは音楽家として

優れていたばかりでなく、

風采が高雅で、各種のスポーツに秀で、

性質も明朗で、その心構えも

優しかった為に、逢うほどの人

誰にでも愛され、多くの友人と

渇仰者を持ち、往くところ、

美しい友情の発露を見ざるはなかった。

メンデルスゾーンには、富裕に

育った人の動もすれば陥りやすい、

驕慢と冷たさと、上滑りなところが

無かったのである。

引用:あらえびす著「クラシック名盤 楽聖物語」P.140

今回は、書籍からの引用が

多くなってしまうが、

それだけ知られざるメンデルスゾーンがいた

ということでもあり、

紹介したい箇所がたくさんある

ということでもある。

メンデルスゾーンの才能は多面的で、

音楽のほか、教育者として、

そしてまた絵画でも

玄人はだしの絵画が残っているほどだ。

一八二六年、シェークスピアのドイツ訳が

完成されると共に、メンデルスゾーンは

「真夏の夜の夢」の夢幻的な詩趣に

異常の興味を感じ、

一気にその「序曲」を作り、

メンデルスゾーン家の音楽会で演奏した。

その時、完成したばかりの

「真夏の夜の夢」

の総譜を馬車の中に失い、

演奏会に間に合わなくなって、

大急ぎで記憶を辿って書き直したが、

後に発見された原作と比較して見ると、

細部に至るまで少しの違いもなかったと

言われている。

メンデルスゾーンの天才が、

十七八歳にして既に

完成されていた証拠である。

引用:あらえびす著「クラシック名盤 楽聖物語」P.140-141

メンデルスゾーンは、18歳にして

「真夏の夜の夢」序曲を書き、

のちに聖譚曲「エリア」など大作を残して

39歳でこの世を去った。

畢生の傑作、聖譚曲「エリア」に着手した

のはその頃で、一方傑作

「ヴァイオリン協奏曲」を完成したのも

その頃である。

それは一八四四年のことで、

彼の健康もまた、この頃から

漸く衰えを見せた。

一八四六年「エリア」の作曲に精力を

集中して、甚だしく疲れ果てた彼は、

一八四七年、最後の訪英に

無理が続いたうえ、

カレーからフランクフルトに帰り着くと、

少年時代から力になり合っていた

姉のファンニーが、突然死去したという

知らせを受け取った。

多感の才人、織悪しく健康の

衰え切っていた

メンデルスゾーンにとって、

それは想像以上の打撃であったらしい。

彼は最早作曲する力も指揮する

張合も無かった。

その年十月発作が起り、

一度は恢復したが、

十一月四日、終にこの世を去った。

三十九歳という若さである。

引用:あらえびす著「クラシック名盤 楽聖物語」P.142-143

楽曲として「ヴァイオリン協奏曲」や

「イタリア交響曲」「結婚行進曲」など

有名な曲もいくつもあるのだが、

楽曲だけで評価されがちな音楽家にとって、

それ以外の仕事がなかなか知られないことが

残念でならない。

 

若かりし頃から音楽的才能が

完成されておりながら、

ユダヤ系の血脈を持つが故の苦悩を乗り越え、

プロテスタントとしての

宗教的な信仰の深まりを経て、

キリスト教の信仰の偉大さを

音楽で伝えていきたいという

志、使命感を持ったのではなかろうか。

 

その意味で、私が注目したいのは

音楽史的な業績である。

 

メンデルスゾーンによるバッハ《マタイ受難曲》復活上演の音楽史的影響

ここからは、メンデルスゾーンの

音楽史的な業績

について触れていきたい。

まず、指揮棒を正式に使用して、

指揮者の責任範囲を芸術面にあるとしたのが

メンデルスゾーンであったことは

あまり知られていない。

ドイツの作曲家・ヴァイオリニストで

イタリアに帰化したシュポーアは、

1820年に現在のような指揮棒を

使用したというが、

厳密な意味で指揮棒を正式に

使うようになったのは

メンデルスゾーンであり、

ほぼ専門的な指揮者として登場した。

<中略>

これまで指揮者の役割や立場は

あいまいだったが、

メンデルスゾーンは指揮者としての

職務範囲を演奏曲目の選定から

作品の解釈にまで踏み込んでいる。

彼は速度、抑揚、フレージング、

音色などに関して指揮者の要求に

応えるように楽団員に周知させた。

指揮者は単なるオーケストラの

技術的まとめ役ではなく、

解釈というものの重要性を

明確にするとともに、

自分の一人の指揮によって

解釈の統一をはかることにした。

つまり彼は指揮者の責任は

芸術面にあることを、

内外にアピールしたのである。

引用:舩木元著「メンデルスゾーンの世界」P.110 

メンデルスゾーンによる指揮法の確立以前は、

コンサートマスターの第一ヴァイオリンが

テンポを取っていたり、指揮者の役割が

あいまいなままだった。

これを、指揮者は楽曲の解釈など

芸術面全般の責任を持つとしたことは、

後世にとって大きな進歩となったことだろう。

 

そして、音楽史史上で

最大の貢献ともいえるのが、

ヨハン・セバスティアン・バッハ

《マタイ受難曲》復活上演である。

 

メンデルスゾーンが復活上演するまでの

100年余り、バッハが死去してから

誰もバッハの宗教曲を

演奏した人はいなかった。

演奏を試みようとしても、

誰も時代の流れと逆らい、

復興という大仕事を担おうと

思わなかったのである。

 

モーツァルトベートーヴェンの銅像が

建っていたとしても、

音楽の父といわれるバッハの音楽は、

カビが生えているといわれ

人気がなかった時代だったのである。

1829年、弱冠20歳のフェリックスは、

19世紀の”バッハ・ルネッサンス”に

重要な貢献をすることになる。

3月11日、ベルリンの

ウンター・デン・リンデンにある

ジングアカデミーのホールで、

ヨハン・セバスティアン・バッハの

《マタイ受難曲 BWV244》が

ほぼ100年ぶりに復活上演された。

フェリックスが指揮をし、

この蘇演計画の協力者

エドゥアルト・デヴリエントが

イエスのパートを歌った。(中略)

キリスト受難の情景が音楽により、

壮大な絵巻のように描き出された。

大合唱、大管弦楽はバトン(指揮棒)

を手にしたフェリックスの指揮に

よく応えた。

会場は満員にもかかわらず、

深い静けさと厳粛さが広がり、

教会のような雰囲気が漂っていた。

終演後は聴衆、出演者とも

深い感動に包まれた。

公演は期待以上のできで、

大成功裡に終わった。

引用:舩木元著「メンデルスゾーンの世界」P.214

わずか20歳で《マタイ受難曲》の

復活上演を成し遂げるためには、

10代の頃からバッハの楽曲の譜面に

触れる環境があり、

ツェルターという師匠のもとで

バッハの楽曲を学ぶ機会が

与えられていたのも大きかっただろう。

フェリックスはこうして20歳で、

19世紀におけるバッハ再評価の

口火を切るという

音楽史における偉業を成し遂げた。

そして現在のバッハ受容へと

続くのである。

バッハの真価を見抜いたのは

彼の慧眼といえよう。

この公演はバッハのほかの作品や

バロックの宗教曲に対する関心も

醸成するきっかけになった。

フェリックス自身にとっても、

20歳で《マタイ受難曲》に

接したことは、

その後の芸術活動に重要な影響を

もたらしたといえよう。

彼はこの曲と同じような

構想によって

彼自身の宗教曲を作曲しようと

考えたのである。

引用:舩木元著「メンデルスゾーンの世界」P.217

このバッハ再評価の口火を切るという

偉業を成し遂げたことから、

音楽史は大きく影響を受け、

現代に続くクラシック音楽の高みへと

つながっている。

 

これは、宗教音楽史的に観れば、

バッハという音楽の頂点の始祖の音楽を、

再び見出した中興の祖のような位置づけ

にも見える。

 

その意味で、100年間忘れ去られていた

バッハの音楽を、

再び蘇らせて音楽文化の高みを

創ったことに対する評価が

もっとなされるべきであると感じる。

 

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メンデルスゾーンの音楽教育と交響曲第5番「宗教改革」に込められた使命感

 

また、メンデルスゾーンは

音楽教育機関を立ち上げ、

音楽文化を改革したという意味で

後世への功績が絶大なのだ。

1843年4月23日、トーマス教会の

プロムナードに、バッハの記念像が

設置されたのである。

除幕式にはバッハの孫も招待された。

バッハ記念像建立によりライプチヒが

ドイツ音楽の発祥の地であることを、

彼は内外に知らしめたのである。

引用:舩木元著「メンデルスゾーンの世界」P.116

そして、メンデルスゾーンは

音楽家を育てることにも注力し、

名を変えて現代まで残る

ライプチヒ音楽院を創設し、

世界中から優秀な学生を

集めて世界レベルの

音楽教育の機関を作ったのだ。

メンデルスゾーンがライプチヒ音楽会に

対して果たした貢献の中で、

今日まで強い影響力を及ぼしているのが、

音楽院の創設である。<中略>

このドイツでの最初の音楽院は、

各専門分野における一流の教授陣を

招聘したこともあり、

世界各地から優秀な学生が集まった。

留学生はイギリスとアメリカからが

最も多く、そのほかロシア、ポーランド、

ハンガリー、チェコなどの東欧、

デンマーク、ノルウェー、

スウェーデンなど北欧からも集まり、

世界的なレベルの

音楽教育機関になったのである。

引用:舩木元著「メンデルスゾーンの世界」P.119

この音楽院には、

エドヴァルド・グリーグ、

エドリアン・ボールト、

そして日本の滝廉太郎も

学んだと言われている。

 

メンデルスゾーンは、

ユダヤ系の家系だったがゆえに

ドイツにおいて批判にさらされ、

歴史の表舞台から

消されそうになったこともあるようだが、

近年は再評価の動きが高まっている。

 

音楽家が光の天使の仕事だとするならば、

音楽的高みの頂きにある

バッハの音楽を受け継ぎ、

さらなる音楽文化の育成に力を注いだ

メンデルスゾーンは、

音楽家のみならず宗教家的な仕事も

成した魂なのではないだろうか。

メンデルスゾーンの宗教音楽の創作は、

自身はもちろん、一家がユダヤ教から

プロテスタント派のキリスト教に

改宗したということを

考慮する必要がある。

少年のころからバッハの音楽に親しみ、

《マタイ受難曲》の蘇演を成功させ、

さらにデュッセンドルフでは

ヘンデルのオラトリオを研究した。

彼は聖書を徹底的に研究するなど

、一般のキリスト教徒よりも

よほど深い信仰心を持っていた

といえる。彼は11歳のころから

38歳で死去するまで、

生涯を通して宗教音楽を書いている。

引用:舩木元著「メンデルスゾーンの世界」P.231-2

メンデルスゾーンは

熱心なルター派信者であり、

このブログでも紹介したルターのコラール

「神はわがやぐら」をモチーフにして

交響曲第5番「宗教改革」という

楽曲を書いているのだ。

 

なかなか初演にこぎつけられず、

また1度上演した後、

長らく上演されていなかった

とのことだが、

メンデルスゾーンの宗教的使命感が

よく表れているのではないかと思う。

交響曲第5番「宗教改革」を

お聴きいただきたい。

 

最後に、メンデルスゾーンの楽曲

「ヴァイオリン協奏曲」を紹介したい。

「メン・コン」と呼ばれ、

冒頭の甘美なメロディが

一度聴いたら忘れられない

という楽曲で、みなさんも一度は

聴いたことがあるだろう。

 

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  • この記事を書いた人

ありおん

Aoide Production代表。”文化の創りかた”ブログ管理人。 Vyond、Premiere proで動画制作|HP制作|楽曲制作|ブログ|新しい文化をカタチに!仕事依頼はAoideProductionホームページをご覧ください。

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