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ブルックナー【交響曲第4番ロマンティック】にみる飽くなき探究心と完璧主義

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2024年は、アントン・ブルックナー

生誕200年の記念すべき年である。

今回は、交響曲と宗教音楽の

大家として知られるブルックナーの

生涯について触れてみよう。

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ブルックナーの少年期とカッティンガーとの出会い


1824年9月4日、リンツ近郊の村アンスフェルデンに生まれた。

父は同名のアントン・ブルックナーで

小学校の教師、オルガニストであった。

母は地主の娘テレジアで、11人兄弟の長男として

生まれたが、そのうち6人は夭折し、

幼心に死というものを深く心に刻んだのである。

「トーネル」と呼ばれたブルックナーは、

音楽への興味と才能を示しており

父は自分より優れた教師が必要と感じて

11歳の頃ヨハン・バプティスト・ヴァイスに

指導を受けることになった。


そして12歳の時、父が肺疾患と衰弱で亡くなったため、

母は一人で子供を育てなくてはならなくなった。

そのため、ブルックナーはその日のうちに

聖フローリアン修道院に合唱児童として

預けられることとなったのだ。

そこで出会ったのが、

「オルガンのベートーヴェン」と称えられた

アントン・カッティンガーであった。

このカッティンガーからオルガンや和声、

通奏低音を学び、

合唱児童で声変りをしてからも

カッティンガーのオルガン助手として

修道院にとどまることになった。


そして、聖フローリアン国民学校を卒業した

ブルックナーは、父と同じ教師の道を志す。

小学校の教師としての職を得て、

20歳には正教師の試験に合格したのである。

その後、母校の聖フローリアン国民学校に

教師として採用され、

カッティンガーの下でオルガン修行を積んでいった。

27歳の時、カッティンガーが再婚の為

聖フローリアンを去ることになり、

後任として「修道院オルガニスト」を任命される。



教員としての昇進と音楽理論への研鑽


30歳の時、上級学校教師の試験に合格し、

教員としても昇進したブルックナーは、

ウィーン音楽院の教授であった

ジーモン・ゼヒターに弟子入りを許される。

1856年、リンツ大聖堂にて

同大聖堂および

市教区オルガニスト採用選考会

が開かれた。


その結果、ブルックナーは

「すべての参加者のうちアントン・ブルックナーに

申し分なき優位が認められる」との判断が下され、

正式採用となったのである。

その後も教員としての研鑽を

欠かさなかったブルックナーが、

教授資格を得るための

試験を受けた際のエピソードを紹介する。

十月二十日には、ウィーン楽友協会音楽院に、和声学と対位法の教授の資格を得るための試験の願書を出した。<中略>

書類審査の結果、フーガの即興演奏の試験がおこなわれることになり、二十一日、ブルックナーの希望により、三年前にも試験を受けたピアリスト教会において実施された。まず、ゼヒターがその場で四小節の旋律を記し、ヘルベックがこれに四小節を加えた。ブルックナーがこうしてできた主題にもとづいて素晴らしい演奏をおこなったため、ヘルベックは驚嘆のあまり、「彼が私たちを試験すべきだった」と述べたと伝えられている。翌二十二日には、以上の審査委員たちにより、ブルックナーが「すぐれた専門的能力を持った熟練音楽家であるのみならず、音楽院の教師としても推薦されうる」との証明が公にされた。

引用:根岸一美著「ブルックナー」P.27-28



この後、ブルックナーは

音楽理論の学識への研鑽はやまず、

自分より10歳も年下の

オットー・キツラーから

楽式論、管弦楽法を学び始めたのである。

キツラーのもとでブルックナーは作曲の実践力を身につけていったが、同時にワーグナーの作品を学ぶことができたことものちに決定的な意味を持つことになった。キツラーはブルックナーとともに<タンホイザー>のスコアを研究し、そして1863年2月13日、キツラーの指揮でこの曲のリンツ初演がおこなわれた。ブルックナーはまさに時代の最先端を行く作品を深く学んだのである。

引用:根岸一美著「ブルックナー」P.30

このキツラーとの出会いと学びが、

ブルックナーの交響曲にとって

非常に影響を与えた出来事の一つだった。

レッスンを通じて知ってワーグナーの世界は、この人物の強力な個性とともに、ブルックナーに大きな影響を与え続けることになるが、交響曲の実際の創作にたいしてより直接的な作用をおよぼし、実際に作品のなかに痕跡をのこしつづけたのはむしろベートーヴェンであったといえよう。キツラーによるレッスンのなかでベートーヴェンのソナタが教材に使われたことは前に述べたが、彼の交響曲、とりわけ《第九》こそが、ブルックナーの交響曲の絶えざる原点となるのである。

引用:根岸一美著「ブルックナー」P.31

ベートーヴェンの第九こそが、

ブルックナーの交響曲の原点と言われ、

持ち前の学識と探究心で

その後交響曲を数多く作曲していくのである。

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ワーグナーとの出会いとハンスリックとの対決



また、その後ワーグナーから

「トリスタンとイゾルデ」の初演の招待が届き、

これを機にワーグナーとの関係が深まっていった。

1873年9月のある日(13日、もしくは14日)、昼前にブルックナーはワーグナーの家を訪ね、交響曲第二番と、完成途次にあった交響曲第三番の楽譜を見せた。そして、いずれかの曲の献呈をうけいれていただきたいと願い出たところ、夕方五時にまた来てくれ、それまでに楽譜を見ておくから、ということになった。ブルックナーがふたたびワーグナー邸に入ると、ワーグナーはブルックナーの首に手をかけて抱きかかえ、「献呈はまったく問題ありません。あなたはこの作品によって私を大いに喜ばせてくれました」と言ってあらためて歓迎してくれた、というのである。「私は楽匠の傍らに座し、ウィーンの音楽的状況について語った。彼は私にビールをふるまってくれた。このに時間半、私はなんと幸福であったろう」

引用:根岸一美著「ブルックナー」P.65-66

あまりの緊張に

どちらの交響曲が献呈を受け入れられたか

失念してしまったブルックナーは、

ワーグナーの歓迎を受けた次の日、

その場にいた知人を訪ね、

ようやく交響曲三番が受け入れられたことを

確認するのであった。


もう一つ挙げておくべきとするならば、

ウィーン大学のハンスリックとの対決であろう。

ハンスリックは反ワーグナー派の急先鋒でもあった。

ブルックナーがウィーン大学に音楽理論の講座設置を

要請して講師として採用を願った際、

立ちはだかったのが彼である。

音楽院での仕事のために作曲の時間が奪われることを嘆いていたブルックナーであるが、四月十八日、それと矛盾するような行動を起こした。すなわち彼は文化教育庁に宛てて、ベルリンやパリの大学と同様、ウィーン大学にも音楽理論の講座を設置し、自分を講師に採用してほしいという趣旨の手紙を送ったのである。<中略>

文化教育庁はブルックナーのこの請願についてただちにウィーン大学哲学部に諮問した。学部長エードゥアルト・ジュースはハンスリック教授の見解を求めた。ハンスリックはこれに対し、五月四日付けの回答書で、ブルックナーのこの申請は彼が妨げることなく作曲に没頭できるためになされたことにすぎないこと、作曲法は大学の科目ではなく、音楽学校ならびにコンゼルヴァトーリウムの科目であり、音楽関係機関の多いウィーンにおいては大学にそのようなものを設置する必要はないこと、さらに、ブルックナーは学問上の基礎教養が著しく欠けており、大学での仕事に適していないこと、そしてさらに、教育活動や業績についての書類が提出されていないこと、等の理由を挙げ、「以上の一切の理由にかんがみて報告担当者はブルックナー氏の請願の却下を提議するものである」と締めくくっている。

引用:根岸一美著「ブルックナー」P.70-71

紆余曲折があったが、

この却下にもめげず

ブルックナーは

ウィーン大学に和声学と対位法の講座を

設置するようふたたび働き掛けを行ったのである。

ブルックナーは、七月十二日、文化教育庁にたいして、ウィーン大学に和声学と対位法の講座をもうけるよう、あらためて申請した。こんどは国会議員のアウグスト・ゲレリヒ(ブルックナーについての評伝を書いた人物の同名の父)の力添えを得ることができ、文化教育長官が動き、大学の哲学部に働きかけた。その結果、口座の開設とともにブルックナーに無給講師のポストを与えることが十月二十九日の教授会で決議されたのである。出席者全員の一致した賛成であったが、学部長ジュースとハンスリックは欠席した。

引用:根岸一美著「ブルックナー」P.74-75

やっと念願のウィーン大学での講座設置を許され、

無給講師のポストを与えられたブルックナーは、

教員としての学識、音楽理論の学者としても

一流であった。

 

ブルックナー【交響曲第4番ロマンティック】にみる飽くなき探究心と完璧主義


ブルックナーの交響曲の作曲の特徴を挙げるとするならば、

度重なる大幅な改訂を施したということも

他の作曲家にはない特徴だろう。

交響曲第三番の初演が大失敗に終わった後も、ブルックナーは倦むことなく自分の作品を見なおし続けた。1878年1月4日には、交響曲第5番のアダージョの点検を終え、以上をもって全曲の見直しが完了した。このあと、十三日には、男性合唱と独唱とヨーデル唱、ならびに四本のホルンのための《夕べの魅惑》変ト長調WAB57が完成し、18日には交響曲第四番の新たな改訂を始めている。

じつは前年の10月12日、ブルックナーはタッペルトに宛てて、「私は、第四、ロマンティッシェ交響曲が根本的な改訂をぜひとも必要としていることに完全な確信を抱きました。たとえば、アダージョ[注 原文通り。緩徐楽章の速度表示は、いずれの稿においても<アンダンテ、ほとんどアレグレット>である]のヴァイオリンの音型は難しすぎますし、演奏不可能です。楽器法も随所で厚ぼったく、落ち着きがありません」と記していた。したがって、ブルックナーは、こうしたみずからの「完全な確信」からさらなる努力の歩みをはじめたということになる。

引用:根岸一美著「ブルックナー」P.83-84

その意味でブルックナーは

深い音楽の学識を持つがゆえに

完璧主義でもあった。

そして改訂に改定を重ねた

交響曲第四番は、

大成功の拍手喝采で迎えられた。

ブルックナーは「交響曲の各楽章がおわるたびごとに聴衆から大きな歓呼を受けた」(『ノイエ・フライエ・プレッセ』紙、二月二十二日、ハンスリック)。この演奏会についての批評は以後も連日各紙を賑わせたが、三月三日の『ファーターラント(祖国)』紙では、エードゥアルト・クレムザーが、こう評している。「彼(ブルックナー)は控えめで謙遜であるが、強い自信に満たされている。かつて聴いた話だが、彼はなぜオルガンの演奏会を開かないのかと尋ねられて、こう答えたという。<私の指は葬られますが、それが書くものは葬られることはないでしょう!>と。これは強い言葉だ。だが、間違ってはいない」(中略)

「アントン・ブルックナーの新しい交響曲(変ホ長調)の尋常ならざる成功については、すでに報じた。本日付け加えうることは、ただ、われわれにとって完全には理解できない作品のこのような成功を、われわれは作曲者のきわめて尊敬に値する、そしてきわめて好感のもてる人柄ゆえに、率直に喜ぶものである、ということのみである」。

引用:根岸一美著「ブルックナー」P.90-91

改訂に改訂を重ねて

最後に拍手喝采で迎えられた

ブルックナー代表曲の一つ、

交響曲第四番を聴いて頂きたい。


現役指揮者が語るブルックナー論



ここで、現役の指揮者、平林遼氏が語る

ブルックナー論が面白かったので紹介したい。



ブルックナーは独自の天才であり、

ある人が「月がそのまま落ちてきたような音楽」

と表現していたのは印象的だった。

ブルックナーの音楽には、

子供のような純朴な精神を感じると言われていて、

「指揮者としてやってみると

ブルックナーの良さがわかる」

「他の作曲家との違いが明らかに分かる」

と語られていた。

それほど、このブルックナーの交響曲は

壮大で難解でありつつも

だんだんと味わい深くなっていくような

不思議な魅力があると感じる。

自身への評価の高まりを受けて、ブルックナーは、かつての願望をふたたびいだくようになった。博士号がほしいとの思いである。1891年6月17日、レーヴィに宛てて彼は次のような内容の電報を送った。「私の作品に対する貴下のご見解を信頼し、切にお願いしたいことは、これらの仕事に対する評価書を、大学からの顕彰のためにお送りいただきたい、ということです。これらの仕事が、学問的、対位法的基礎の上に行われていることにもご留意いただきたく存じます」

ブルックナーの意向を受けたレーヴィは、みずから評価書を記すことは差し控えたものの、周辺にむけて運動を開始した。(中略)

こうした運動の結果、7月4日、大学の哲学部教授会において「現代の最も重要な交響曲作曲家に数え入れられる著名な作曲家アントン・ブルックナーに対し名誉哲学博士の称号を授与する」提案がおこなわれ、ーハンスリック教授が席を立った後に、発声による表決が行われた。

引用:根岸一美著「ブルックナー」P.139-140


最後に、

ブルックナーという音楽家は

第一印象で注目を浴びるような人物ではなく

純朴な人柄で、

楽曲もとっつきづらいという印象はあるが、

実は教師としても

名誉博士号を取得するほど成功され、

またオルガニストとしても一流、

作曲家として

「最も重要な交響曲作曲家」

と称されるほどの晩年を送った、

音楽家としては珍しいほどの

栄達を遂げた人でもあった。



そしてその人生は、

謙虚さとたゆまなき探究、

勤勉な努力に裏打ちされた

成功であったのだろう。



音楽家の生涯を知って

交響曲を聴くと、

改めてまた

深い味わいがでてくるものである。


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ありおん

Aoide Production代表。”文化の創りかた”ブログ管理人。 Vyond、Premiere proで動画制作|HP制作|楽曲制作|ブログ|新しい文化をカタチに!仕事依頼はAoideProductionホームページをご覧ください。

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