今日はリヒャルト・ワーグナーの
総合芸術論について探究してみたい。
ワーグナーといえば
19世紀ロマン派オペラの頂点であり、
英雄的なゲルマン神話をモチーフにした楽曲の
壮大さに聴き惚れる方も多いだろう。
ワーグナーの人生も壮絶な人生であり、
自身のオペラを自分の
想定通りに演奏するために、
当時の王の支援を得て
バイロイト祝祭のオペラ劇場を
建設してしまったり、
オペラの台本もすべて
ワーグナー自身が書いていた
ということからも音楽に限定しない
才能が伺える。
また、2度の結婚や恋愛の浮名を流したり、
革命運動に参加して亡命生活を送ったり、
反ユダヤの意志を持って
ユダヤ系をこき下ろしたり、
音楽家に飽き足らず、
理想家肌の自信家であり
自分の信じる道を突き進んだ人
という印象が残る。
そしてもうひとつ特筆すべきは
音楽評論であり、
「芸術と革命」「未来の芸術作品」
「音楽とユダヤ性」「芸術と宗教」
など数多くの論文を書き、
後世の音楽世界に多大なる
影響を及ぼしたといってよい。
19世紀に、
古典主義的ロマン派で
絶対音楽と呼ばれたブラームス派と、
青年ドイツ派で
後期ドイツ・ロマン主義と呼ばれ
進歩的音楽を切り拓こうとした
ワーグナー派とが分かれ、
この両派からまた音楽家が
輩出されて時代を作っていく有様は、
音楽史的にも非常に興味深い時代である。
若かりし頃のリヒャルト・ワーグナー
リヒャルト・ワーグナーは1813年5月22日に
ザクセン王国のライプツィヒに生まれた。
父カール・フリードリヒ・ワーグナーは
生後間もなく死去し、
養父ルートヴィヒ・ガイヤー
が母ヨハンナと再婚して育てられた。
ワーグナー家は音楽好きであったが、
ワーグナーは音楽の英才教育は受けておらず、
幼少時は「コサック兵」と
あだ名をつけられるほど
わんぱくな子供だったという。
ワーグナー家の家系は実父はアマチュア俳優、
養父ガイアーはプロ俳優、
長兄アルベルトと
姉クラーラはオペラ歌手など
芸術家一家で育った。
ドレスデンのクロイツ学校時代、
病死した生徒の追悼のための詩の募集で
作品が最優秀に選ばれ、
この12歳のときにはじめて文才を認められ
詩人になりたいという希望を持った。
その後15歳で初めて2年を費やした
大悲劇「ロイバルト」を書きあげて
姉たちに見せたところ、嘲笑されて
自尊心を傷つけられ、処女作を
自分から破棄してしまったという。
ワーグナーが音楽に夢中になる
キッカケを作ったのは作曲家
カール・マリア・フォン・ウェーバー
であり、
ドレスデン宮廷歌劇場音楽監督であった
ウェーバーにワーグナーは生涯
敬意を払い続けたという。
そして15歳の頃、
ベートーヴェンに感動して
音楽家を志すのである。
作曲家としてワーグナーの手本に
なったのはベートーヴェンである。
しかし、ベートーヴェンの場合、
ワークナーが惹かれたのは、
その唯一の歌劇《フィデリオ》よりも、
交響曲をはじめとする
一連の器楽曲だったことは
注目に値する。
とりわけ、当時まだ真価を知られていた
とはいえない第九交響曲に興味を抱き、
スコアを借りてきては筆写し、
全曲のピアノ編曲版を作るほどの
熱の入れようだった。
引用:吉田真著「ワーグナー」P.16
このベートーヴェンの第九を
17歳でピアノ用に編曲し、
その編曲版を出版しようと
ショット社という
出版社に掛け合うほどの
行動力を見せた。
残念ながら出版には至らなかったが、
成長してからの行動力の片鱗を
垣間見れる逸話である。
そしてベートーヴェンの第九は、
ワーグナーのその後の人生にとって
大きな影響を与えるのだ。
絶望と自棄とにすっかり自信を
失ってしまったワグナーは、
ある日コンセルヴァトワールで
アベネックの指揮するベートーヴェンの
合唱附シンフォニー「第九」を聴いた。
思いもよらぬ天来の声は、
絶望のドン底に泥の如く打ちひしがれた
青年ワグナーの耳に朗々と響いたのである。
「人生の希望は此処にある。光明よ、
歓喜よ、ー真実の音楽はこれだ」ーと。
ワグナーは蹌踉として貧しい自分の部屋に
帰ったが、恐ろしい興奮のために
発熱して、翌る日も枕から
離れることは出来なかった。
斯うしてベートーヴェンは
天来の啓示となって、
ワグナーに往くべき道を教えたのである。
引用:あらえびす著「クラシック名盤 楽聖物語」P.194-195
18歳の頃、<婚礼>という
初めてのオペラ台本を書き始めた。
これも姉の感想が芳しくなく
台本も破棄してしまったが、
すぐ気持ちを切り替えて
次の作品にかかる精神の強さがあった。
その後いくつかの歌劇を作曲し、
台本もすべて自分で書いたが、
この頃に青年ドイツ派とも
関わりを持つようになった。
ベートーヴェンを敬愛しつつ、
青年ドイツ派の理念も影響して
脱ベートーヴェンを模索するようになった。
ベートーヴェンが究極の形として
完成させた交響曲というジャンルを
追いかけるのをやめ、
オペラ作曲家としての道を
歩むことになったのだ。
ワーグナーとヒットラー、そしてニーチェ
なによりもワーグナーが
他の作曲家と違うところは、
理想を掲げて当時の王の支援を得て
自作の楽曲を専門で上演する劇場まで
建設してしまうこの手腕、
そして諦めない精神であろう。
言い換えれば相当な自信家であり、
野心家であったともいえる。
なによりもワーグナーは、
毀誉褒貶の激しい人物だった。
市民社会の誕生は芸術家のプライドをも
目覚めさせたが、とりわけ彼は
群を抜いて高いプライドの持ち主だった。(中略)
彼は台本を自分で書くほど
文才に自信をもっており、
徹底して自らのコントロールの下で
自作の舞台制作が
完成することを望んでいた。
また自作のオペラに登場する
男性主人公を、
ワーグナー自身の生き方や価値観を
反映させた英雄に仕立て上げるという、
見方によっては誇大妄想的な姿勢を
あらわにすることも厭わなかった。
というわけでワーグナーは、
既存の劇場では自分の考えを
満足ゆくかたちで
実現できないと悟ると、
自作の上演を専門におこなう
劇場を建設することを決意。
しかもこの途方もないアイディアを、
当時としてはかなり高齢の六十歳代で、
ついに実現させてしまうのである。
引用:小宮正安著『名曲誕生 時代が生んだクラシック音楽』P.178
音楽家としてはめずらしく、
一代で大企業を創った起業家のような
成功談でもある。
そしてその自身の生き方を投影させた
ゲルマン神話に基づく英雄譚を台本にした
オペラは、多くの人々を魅了した。
オペラ『ローエングリン』は、
たしかに危機を救う英雄を描いている。
だがその英雄とは、つまるところ
ワーグナーにとっては、
自分の分身にほかならなかった。
王までも自分の野望のために
使ってはばからない大胆さと、
なんの衒いもなく自らを英雄的存在にまで
高めようとする自己陶酔的な顕示欲が、
オペラ全体に幻想的な美しさを与え、
それにハマった人々を徹頭徹尾
その虜にしてしまう。
―ドイツ帝国の誕生から約六十年後、
このワーグナーの美に自分自身を重ねた
権力者が現れた。
ルートヴィヒ二世とは異なって、
彼は現実世界の支配にも
貪欲な姿勢をみせ、
支配の道具としてワーグナーの作品を
用いようとした。
彼の名はアドルフ・ヒットラー(1889~1945)。(中略)
「自分」のために書かれた
ワーグナーの作品。
自己陶酔や集団催眠という点においては、
現実的なヴェルディの作品より
ワーグナーのそれのほうが、
よほど麻薬的な効果を発揮したのだった。
引用:小宮正安著『名曲誕生 時代が生んだクラシック音楽』P.183-4
ワーグナーにとって
後世のアドルフ・ヒトラーが
ワーグナーの熱狂的な支持者となり、
そのヒトラーがドイツ帝国の独裁者として
戦争を仕掛け、西欧世界に
多大な被害をもたらした
というのはとんだ迷惑という
気持ちかもしれない。
ただ、ワーグナーの英雄崇拝的、
自己陶酔的な精神を含む楽曲が、
ヒトラーの帝国主義を鼓舞したというのは
皮肉としか言いようがない。
また、ワーグナーは
フリードリヒ・ニーチェ
とも親交があった。
はじめニーチェが
熱烈なワーグナーファンであり
親密であったが、
しだいに意見の相違や
ワーグナーが劇場建設の際に
ニーチェを重く
用いなかったこともあり
ニーチェの心が離れ、
ついには反ワーグナーに
なったと言われる。
「ツァラツゥストラ」などの著作で
「神は死んだ」と宣言した
ニーチェは、
はじめワーグナーの
英雄的な音楽に惹かれたが、
あの世の霊的世界を否定し
超越者として自らを位置付けた
その超人思想の思想的誤りにより、
精神錯乱を起こしてしまう。
ワーグナーは
プロテスタントとして
確かな信仰を持っていた立場であり、
ワーグナーの晩年と
ニーチェの晩年を振り返ると、
神を否定し友人をも否定した
思想家の孤独な心境がうかがい知れる。
ワーグナーの掲げた「総合芸術論」と楽劇(オペラ)の理想
ワーグナーが他の作曲家と違う
もう一つの点は、
多数の論文を残したことである。
ワーグナーが晩年に書いた論文は、
すべてがこの『バイロイト通信』に
発表されたものである。
なかでも、もっとも重要なものは
一八八〇年七月に書かれた
『宗教と芸術』で、
その趣旨は、宗教との退廃とともに
始まった人間の堕落に、
芸術の力によって再生の希望を
見出すというもの。
さらに論は広範囲に展開し、
文明と文化を対立させた認識から、
戦争反対、菜食主義、動物愛護、
禁酒運動など、断片的ながら
二十世紀の泡沫的な思想を先取り
している観があるのが興味深い。
ここでは日本人について
肯定的に述べられた一節を
紹介しておこう。
「菜食を主としている日本人は、
鋭敏な頭脳をもち、
きわめて勇敢であることが
知られている」。
ワーグナーは絶筆となった
『人間性における女性的なものについて』
でも、結婚と女性解放という
新たな問題に取り組んでいた。
引用:吉田真著「ワーグナー」P.158
論文の中でワーグナーは、
音楽こそが世界に救いをもたらす宗教であり、
現在のキリスト教にあるユダヤ教的な不純物を
取り除き、崇高な宗教である
仏教やバラモン教を参考に
純粋なキリスト教を復元しなければならない
とした。
ワーグナーの反ユダヤ思想は、
当時のドイツでは
流行っていた思想であり、
経済的に独占している
ユダヤ人種への嫉妬とともに
社会への痛烈な批判でも
あったのだろう。
ワーグナーが目指した「革命」とは、
あくまで芸術を救済することに
目的があったことが、
ここで明らかとなる。
古代ギリシアにおいて理想的な
統一形態にあった芸術が、
その世界が崩壊してからは分化、
堕落の一途をたどったので、
これを現代において復興させるものこそ
「未来の芸術作品」であり、
その実現のためには
社会そのものの変革が
必要だと説き、
ギリシア悲劇を規範とした、
いわゆる総合芸術論が
初めて提言されている。(中略)
十一月には、前論文で登場した概念を
タイトルにした『未来の芸術作品』が
書かれた。
この五章からなる長編論文は、
「未来の芸術作品」たる
「総合芸術作品」の実体の
体系化を詳細に論じたもので、
その中心にある論点は、
舞踏、音楽、詩からなる
三位一体の芸術の優位性にある。
これが理想的なかたちで
実現していたのは、
前提となる共同体をともなった
ギリシア悲劇であるとされ、
シェイクスピアの劇とベートーヴェンの
第九交響曲にもその要素を認めている。
引用:吉田真著「ワーグナー」P.79-80
宗教が堕落したとみられる
当時の社会の中で、
真の芸術の復興こそが
世界を救う「革命」であると
ワーグナーは考えていた
のではないだろうか。
舞踏、音楽、詩からなる
三位一体の芸術である
古代ギリシャの
ギリシャ悲劇を模範とし、
「未来の芸術作品」たる
「総合芸術」の実現を目指したのが
ワーグナーのオペラ(楽劇)であったのだ。
ワグナーに従えば、あらゆる芸術は
統一帰納せらるべきもので、
詩、絵画、劇、彫刻ー等、
悉く音楽と結びついて渾然たる
一大綜合体を形作り、
楽劇の形式に於いて芸術の
最高位に置かるべきであると
信じたのである。
ワグナーの楽劇はその神聖なる
理想を果たす為に、
営業芸術と引離し、祝祭として、
真に芸術を愛する者によって
支持せられるべきものであった。
引用:あらえびす著「クラシック名盤 楽聖物語」P.199
ワーグナーの総合芸術論は、
あらゆる芸術は統一帰納されるものであり、
詩、絵画、劇、彫刻等
あらゆる芸術の要素がつまった
総合芸術を形作る楽劇こそ、
芸術の最高位に位置付けるべきものであると
信じていた。
これは政治的要素や商業的要素を廃し、
真の芸術を探究し、神聖なる祝祭としての
楽劇を追究しようとした
ワーグナーの理想がうかがい知れる。
従来の「オペラ」の誤りは、
表現の手段である「音楽」が目的となり、
本来の目的である「ドラマ」が
手段になっていることだと
ワーグナーは主張する。
ここで述べられている趣旨は、
かつてグルックと
ピッチーニの論争にあった、
オペラにおいて音楽と台本のどちらが
大事かというような単純な話ではない。
ワーグナーは音楽を女性、
詩を男性に例え、
音楽は詩によって受胎することによって
「未来のドラマ」が生まれるという
理論を展開した。
それでいて、男性である詩人と
女性である音楽家を一身に兼ねる
芸術家が真のドラマの作者である
という主張は、ワーグナー自身の
自己正当化にほかならず、
普遍的な芸術論としての説得性を
獲得するには至っていない。
しかし、この論文『オペラとドラマ』は、
数々の矛盾と牽強付会を含みながらも、
けっしてたんなる自己宣伝が目的ではなく
《ニーベルングの指環》において
真のドラマを創造しようとする
ワーグナーの真摯な理論構築の試みで
あったことは認めていいだろう。
引用:吉田真著「ワーグナー」P.80-81
ワーグナーは、
従来のオペラは「音楽」が目的となり
真の目的である「ドラマ」が手段に
なっていると主張している。
真のドラマであり普遍的な芸術である
楽劇の確立に力を尽くしたのだった。
最後に、
ワーグナーの人生は毀誉褒貶が多く
波乱万丈で一生を書ききれないが、
筆者が興味深かった作曲時の霊感についての
エピソードを一つ紹介したい。
午後に長い散歩でくたくたに疲れて
ホテルに戻ったワーグナーは、
部屋のソファーで
ひと眠りしようとしたとき、
突如、激しい水流に押し流されるような
気分になったという。
自伝『わが生涯』には
次のような記述がある。
「その水のざわめきは、やがて
変ホ長調の和音の響きとなって聴こえ、
分散和音となって、
とどめようもなく流れていった。
この分散和音は、動きを増して
装飾的なメロディとなったが、
変ホ長調の純粋な三和音は
不変のままだった。
この三和音は持続することによって、
私が沈み込んでいた水の元素に
無限の意味を与えようと
しているように思われた」
これが名高い
「ラ・スペツィアの幻覚」で、
ワーグナーはこうして《ラインの黄金》
冒頭部作曲の霊感を得たのだった。
引用:吉田真著「ワーグナー」P.89
眠りに入りつつあった時に
潜在意識からの霊感で幻夢を見て、
その水のざわめきを
音符として感じ取ったという
エピソードは非常に興味深い。
ワーグナー死後、
バイロイト祝祭劇場は
妻のコージマ・ワーグナーが
引継ぎ、
ワーグナーの遺志であった
バイロイト祝祭を
敢行していくのである。
当時13歳だった息子のジークフリートも
バイロイトの指揮者となり、
69歳になったコージマは
息子にバイロイト祝祭の統括者の地位を
譲って引退する。
その後もワーグナー家のバイロイト祝祭は
現在まで連綿と続いているのである。
「タンホイザー」序曲とパルジファル
ここでは、カラヤン指揮の
ワーグナーの歌劇「タンホイザー」の序曲を
紹介したい。
この楽曲は、
初演前にワーグナーから総譜を送られていた
シューマンはメンデルスゾーンに
酷評を伝えたが、
実際に公演を聴いて「天才の片鱗」を認めた
というエピソードがある。
また最後に、ワーグナーが志した
楽劇の理想によって作られた
最後の楽劇「パルジファル」の一部場面を
ご覧いただきたい。
この楽曲は舞台神聖祝典劇と題され、
バイロイト祝祭劇場での
特殊な音響への配慮が顕著であり、
バイロイト祝祭劇場以外での上演を
禁じられていた楽曲でもある。
ワーグナーは毀誉褒貶の多い人物であり
批判や敵も多かったが、
あまりに人間的でありながら
真の芸術の理想の実現に邁進した
人物であったと言えるだろう。
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