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ショパンのノクターン 2 番と生涯(前半生)ーポーランド民謡の影響

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今日はフレデリック・ショパンの生涯について

探究してみたい。

 

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ショパンの生涯(幼少時)と父の教育方針

 

フレデリック・ショパンは1810年3月1日、

ワルシャワ郊外の小村ジェラゾヴァ・ヴォラで

生まれた。

父ミコワイと母ユスティナの間には

4人の子供に恵まれ、その中では

長男フレデリック、長女ルドヴィカ、

次女イザベラ、三女エミリアと

男一人で女兄弟が3人であった。

敬虔なカトリック信徒であった

母ユスティナから、

聖歌やキリスト教の教えなどを

教えてもらいながら成長し、

母と姉ルドヴィカから最初に

ピアノの手ほどきを受けたのである。

 

そして6歳の頃、チェコ生まれの音楽家

ヴォイチェフ・ジヴニーが

ピアノの家庭教師としてきて、

本格的なピアノ・レッスンが始まった。

ショパンのピアノの腕前はすでに

同年代の子供たちをはるかに凌ぎ、

ジヴニーのもと、

才能が自然に花開いていった。

 

ミコワイはショパンを高等学校になかなか

入学させなかった。というのは、

基本的学習が足りないと考えていたからだ。

しかし、それがショパンの音楽的才能に

幸運となった。

八歳から十三歳までの五年ほどミコワイと

バルチンスキによる家庭教育は続き、

その間、ショパンは学校の時間に

拘束されることなく、毎日自由にピアノを

練習し即興演奏していた。

このような環境のなかで、ショパンは

最初の作品ト短調の《ポロネーズ》を

作曲した。

これはフリデリック・スカルベクの援助で

一八一七年自費出版され、

批評雑誌で取り上げられた。

ポーランド民族音楽の作曲家は、

弱冠七歳でいながら、

すでに真の天才だと絶賛された。

引用:小坂裕子著「ショパン」(人と作品シリーズ)P.13

ショパンの人生のなかでの幸運は、

幼少時代に高等学校に

なかなか入学せず、

自宅で毎日ピアノを弾き放題で

自由に練習に没頭できたことかもしれない。

音楽の才能が自然に芽吹き、

毎日即興演奏をするなかで、

7歳にして最初の作品

ト短調の《ポロネーズ》を作曲したのである。

これが子供レベルでなく、

自費出版されて雑誌で取り上げられ、

七歳で”真の天才”と絶賛されるほどの

才能だったのだ。

八歳でそのラジヴィヴ公の前で演奏した

ショパンは、その後もあちこちの

貴族の館から乞われては演奏を

重ねていく。

ショパンの父ミコワイは、

息子が教養の高い人々に

称賛されることは喜んでいた。

ワルシャワの知識階級を率いる

一人である父は、子供の時代は、

教養豊かなバランスのとれた人間に

育つための、基礎を養うべきである

と考えていた。

息子がいくら音楽に才能を示そうとも、

音楽だけをしていればいいという

考えなど持たなかった。

神童ではないかと人々が噂することは

喜んだとしても、

モーツァルトの父のように、

それを糧にするつもりも

その必要もまったくなかった。

引用:小坂裕子著「ショパン」(人と作品シリーズ)P.14

ショパンとモーツァルトとの違いは、

共に幼少時から神童と噂されながらも、

家庭環境で父ミコワイが裕福であり、

教養があったために神童ショパンの才能を

糧にお金を稼ぐ必要がなく、

また音楽以外も学ぶべきという考えを

持っていたことであった。

此処から13歳になるまで、

自宅でピアノを日々練習しながら

様々な貴族のサロンで演奏をしていく。

 

ショパンの生涯(学生時代)とポーランド民謡の影響

エルスネルも父ミコワイの友人として、

幼いショパンの演奏を耳にするたびに

その才能を認めていた。

音楽学校でショパンを教える以前に、

すでにショパンに作曲上の助言をし、

十二歳のころには

音楽理論書を与えている。

ショパンは高等音楽学校で

ピアノを教える、

ヴィルヘルム・ヴァツワフ

・ヴュルフェルからオルガンをも

習い始めた。

ジヴニーと同じくエスルネルも

ヴュルフェルも、

ショパンに演奏法を教えなかった。

音楽の専門家たちがこぞって、

ショパンにあえてピアノ奏法を

指導しなかったということが、

ショパンの演奏家としての

生まれ持った才能がいかに

稀有なものであったかの

証明となる。

引用:小坂裕子著「ショパン」(人と作品シリーズ)P.18-19

ここで特筆すべきこととして、

ショパンが幼少時からピアノを弾いていた

天性の才能から自然と備わった

演奏にたいして、

ジヴニー、エスルネル、ヴュルフェルといった

音楽の専門家たちが

ピアノ奏法の型をあえて指導せず、

そのままの自然な才能の開花を望んだ

ということが挙げられる。

普通、やはり誰でも

基礎のピアノ奏法から学ぶものだが、

ショパンの天性の才能は、

これまでの奏法とは違った

独自のものであり、

かつ自然でショパンの即興音楽には

なくてはならないものであったからである。

 

音楽学校で正式に指導する以前から、

ショパン家でたびたびショパンの

演奏を耳にしていたエルスネルは、

その小さな手が作り出すポーランドの

民族音楽を基盤にした独創性あふれる

即興演奏に感嘆していた。

だからその稀有な才能を、

厳格な音楽理論で束縛して台なしに

することをおそれたのだろう。

エルスネル自身のポロネーズやマズルカ

といった民族音楽を題材にした作品に、

幼いショパンは目を輝かせながら

聴き入っていた。

その理解力にもエルスネルは驚き、

ショパンこそ自分たちポーランドの

音楽家の最高峰に立つことができると

確信していたにちがいない。

エルスネルはショパンの才能を

温かく見守り、その指導のもとで、

一八二二年には

嬰ト短調の《ポロネーズ》が作られた。

引用:小坂裕子著「ショパン」(人と作品シリーズ)P.19

そしてショパンは、

ポーランドの民族音楽に幼いころから馴染み、

そのポーランドへの愛国心から

民族音楽を基盤とした独創性あふれる

即興演奏をするようになっていた。

この稀有なる才能を

型にはめることなく伸ばしたい、

というのがエルスネルの願い

でもあったのだろう。

 

さらに13歳になったショパンは、

父ミコワイが教鞭をとるリツェウムの

四年次編入試験に合格し、

基礎学問を学んだ。

16歳から18歳ぐらいまでは、

エルスネルが教鞭をとるワルシャワ音楽院

に入学し、エルスネルから

対位法や和声などを学んだ。

 

卒業試験に際し、

エルスネルは弟子ショパンに対し、

「稀有な才能ー音楽の天才」

という評価を与えたといわれている。

 

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ショパンのノクターン2番と生涯(パリへの亡命)

 

その後、ウィーンにて

最初の演奏会を大成功させた

ショパンは、2度目のウィーン来訪を果たす。

 

この時、事件が起きた。

「ワルシャワ11月蜂起」の勃発である。

 

1830年11月、ポーランド独立を宣言した

この蜂起は、

翌年9月にロシアがポーランドを占拠して、

革命に加わった人々の

パリへの亡命をもたらした。

 

この頃、ポーランドの家族や仲間たちを想い、

やるせない気持ちで書いたのが

作品10の12の練習曲、

俗称《革命》だと言われている。

その後、ショパンはパリに住むことになる。

 

ここで、ショパンの代表曲を1曲紹介したい。

夜想曲第2番 変ホ長調 作品9-2

(ノクターン第2番)は、

フレデリック・ショパンが

1831年に作曲したピアノのための夜想曲で、

21曲あるノクターンのなかでは

最もよく知られた楽曲である。

 

 

ショパンとフランツ・リストの出会い

そして、ショパンはこのパリで、

フランツ・リスト、

フェルディナント・ヒラー、

メンデルスゾーンと出会うのである。

ショパンより一歳年下のリストは

ハンガリー生まれで、

ジプシー音楽を愛していた。

ショパンと知り合った時はニ十歳に

すぎなかったが、

波乱万丈の経験を重ねたためか、

どこか影のある様子だった。

しかし、いかにも芸術家らしい風格も備え、

パリでもっとも注目される

音楽家のひとりとして、

演奏会に多くの聴衆を集めていた。

「僧服を着た曲芸師」と称されるほど

宗教への憧れを隠さずに、

それでいて演奏はあたかも曲芸のように

極端ともいえるほどの派手な演奏ぶりの

リストは、目の前に立った

ショパンの様子に魅了された。

「自分には備わっていない

貴族的雰囲気に包まれていて、

まるで生まれながらの王子のようだ」と

ショパンを称賛した。

自分と同じように貴族ではないが、

生まれ持った気品が備わったかのような

ショパンの様子、それに見合うかのような

繊細な指、そこから生み出される音楽が

示す美しい独自性、そのいずれにも

リストは強い魅力を感じたのだろう。

引用:小坂裕子著「ショパン」(人と作品シリーズ)P.56-57

フランツ・リストから

「自分には備わっていない

貴族的雰囲気に包まれていて、

まるで生まれながらの王子のようだ」と

称賛されたショパンは、

リストと違って演奏会が実は苦手で、

生涯で公開演奏会は30回しか

実施しなかったという

記録が残っている。

それだけの回数の公開演奏会だけで

伝説となったのは、

本当に稀有なる音楽家と言える。

演奏会の批評では若者にしては

音が小さいという

意見も出ていたが、それはショパンの

繊細で細やかな演奏法ゆえであり、

超絶技巧をパフォーマンスするリストと

対照的でもあったのだろう。

 

ショパンの独創性とピアノ曲の稀有なる調べ

 

ショパンには独自のテクニックが

あることを、いずれの指導者たちも

見抜いていた。

作品もそのテクニックに裏付けされて

作られているので、生徒を教える方法が

ほかの音楽家たちとは違う独自のもの

ということになる。

たとえば、

リストはチェルニーの弟子であり、

カルクブレンナーはクレメンティの弟子

とがなかったので、

その演奏法は独自のもので、

ほかのだれかのものを受け継いでいる

というところがなかった。

引用:小坂裕子著「ショパン」(人と作品シリーズ)P.73

 

ショパンの演奏法は独自のもので、

他の教授法と違いながら、

ショパンの練習曲が芸術性と

上達のための技法を

有しているということから

他の音楽家たちもショパンの指導法に

一目置いていたと言える。

 

パリで一番有名なピアニストだった

カルクブレンナーが最初、

「古典派の音楽を身に付けなかったら、

そこから新しい音楽を

創造することはできない」として、

3年間教授する打診をショパンにした際、

故郷ポーランドのエルスネルだけではなく、

メンデルスゾーンも

不愉快な気分だったと言われている。

 

カルクブレンナーと共演での演奏会で

ショパンの稀有なる才能が証明された際、

メンデルスゾーンも

ショパンに喝采を送ったという。

 

ショパンは悩んだ末に

結局この申し出を断り、

「独力で新しい音楽を創る」という

ことを目指したのである。

 

その後もショパンは

イギリスに演奏旅行に行ったり

様々な楽曲を制作したが、

ショパンがこの時代の稀有なる音楽家と

言われる所以は、

独自の奏法で人々を魅了するピアノ曲を

多数生み出し、ロマン派全盛の

オーケストラ曲が主流の時代のなかで、

ピアノの奏でる音楽を探究し、ピアノ楽曲を

創り続けたことでもあると言える。

ショパンの楽曲は99%がピアノ曲であり、

ショパンが作曲した楽曲すべてに、

協奏曲なども含め

ピアノが含まれているのである。

 

そして、ロマン派の作曲家が

自身の楽曲にストーリーや題名を

付けるようには、ショパンは題名をつけず、

すべて番号だったということにも

ショパンの姿勢が表れている。

《革命》とか《英雄》などは、

後世の人々が付けたというのが

真実である。

 

ショパンが残したピアノ曲は、

練習曲として優れ、芸術性にも優れているため

後世の音楽愛好家たちに好まれ、練習され

多くの人々に影響を与えた。

その独創性とピアノ曲の稀有なる調べに

敬意を表したい。

 

ショパンの生涯(前半生)とジョルジュ・サンド

 

ショパンの生涯は長くなりすぎてしまい、

語りつくせないが

最後に人生に大きく影響を及ぼした

ジョルジュ・サンドとの

出会いの場面を紹介したい。

サンドは長い手紙のなかで、ショパンが

「人間の欲望を軽視し」

「深い陶酔は愛を汚す」と

考えているようだと書いている。

積極的に迫るサンドに、

とまどいを感じていたのだろう。

恋の経験も浅く、マリアのことで

傷ついてしまったショパンと、

多くの恋を経験してきたサンドとでは、

それぞれのとまどいは

まったく違った次元のようだ。

引用:小坂裕子著「ショパン」(人と作品シリーズ)P.109

ショパンは、「人間の欲望を軽視し」

「深い陶酔は愛を汚す」と

考えているように見られていたほど、

ストイックに音楽に向き合っていたのが

垣間見れる。

 

ショパンはこの後ジョルジュ・サンドと別れて

39歳でこの世を去るのだが、

後半生に興味がある方は

またショパンの自伝をお読みいただきたい。

 

最後にもう1曲紹介したい。

2曲目は、ポロネーズ第6番変イ長調 作品53(英雄ポロネーズ)。

フレデリック・ショパンが1842年に作曲し、

翌年に出版したポロネーズ。

『英雄ポロネーズ』の通称で親しまれている。

天才ピアニストのホロヴィッツの名演である。

ぜひショパンの調べを味わっていただきたい。

 

 

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  • この記事を書いた人

ありおん

Aoide Production代表。”文化の創りかた”ブログ管理人。 Vyond、Premiere proで動画制作|HP制作|楽曲制作|ブログ|新しい文化をカタチに!仕事依頼はAoideProductionホームページをご覧ください。

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