今日は、フランツ・シューベルトの歌曲
について探究してみたい。
シューベルトのあだ名と性格
フランツ・ペーター・シューベルト
(1797年~1828年)は、
ウィーン郊外のリヒテンタールに、
教区の教師である父フランツ・テオドールと
料理人だった母エリーザベト・フィッツの
第12子として生まれた。
シューベルトの幼少時のあだ名は
フランツルと呼ばれ、
内気で内省的な子供であった。
シューベルトは小さい頃、父テオドールから
音楽の手ほどきを受け、
家族で器楽を演奏するのが
楽しみであった。
父は俸禄は少なかったが厳格で優しい人で、
兄フェルディナントと
シューベルトは特に親しく、
父はチェロ、
長兄イグナーツが第2ヴァイオリン、
兄フェルディナントは第1ヴァイオリン、
シューベルトはヴィオラを弾いて
四重奏曲をいつも一緒に演奏していた。
この時のエピソードとして、
父のチェロの音が気になって仕方がなかった
シューベルトは、おずおずと微笑しながら
「お父さん、ちょっとどこか
おかしかったようですよ」
とたしなめることもあったという。
シューベルトが11歳になったある日、
宮廷礼拝堂聖歌隊に
二名の欠員がでたという広告が掲載された。
宮廷礼拝堂聖歌隊に入るということは、
コンヴィクトの給費生として最高の専門教育を
受けられることを意味している。
父テオドールは此の好条件を見逃さず、
シューベルトを入学させるべく
宮廷楽長のアントニオ・サリエリの元を訪れ、
受験の相談をしたのだった。
晴れて入学試験で合格したシューベルトは、
それからコンヴィクトの
寮生活が始まるのだった。
このコンヴィクト時代の寮生活で
シューベルトが楽しかったこととして、
学校長で宮廷顧問官のラング師が、
「寮学生だけの
フル・オーケストラを編成したい」
という情熱を燃やし、
寮学生たちにオーケストラの
練習を指導したことだ。
この経験から、
シューベルトも第2ヴァイオリンとして
オーケストラの演奏に参加する
楽しみを覚えた。
このコンヴィクト時代、シューベルトは
寮学生オーケストラのための
管弦楽曲を創作した。
幼少時から作曲は
思いつくまましていたシューベルトも、
コンヴィクトにおいて専門的音楽教育を学び、
またオーケストラで
実践の機会が与えられるという幸運を得て、
作曲の才能を伸ばしていったのである。
ただシューベルトは作曲に熱中するあまり、
学業がおろそかになり、
息子が立派な教師になることを夢見ていた
父テオドールは大いに憤慨した。
成績が落ちて奨学金が貰えなくなれば
教師への道も閉ざされると思ったからである。
この親子の葛藤は、
数学でついに落第点を取り、
コンヴィクトを退学する際にまた再燃した。
その後徴兵を逃れるという目的もあり
教職に就いたシューベルトであったが、
なかなか情熱を見出すことができず、
作曲活動をしながら
教職からの逃避を繰り返すのだった。
そのシューベルトの性格を表す
エピソードを紹介したい。
シューベルトは「彼自身世界一と自任
しない唯一の作曲家であった」
と言われている。
彼は自分の天才を少しも知らなかった
ほどの謙遜の魂の持主で、
たまたまその歌がやんやと言われると、
「それは歌い手のフォーグルが
うまいせいだ」と信じ、
現にその日記に
「その喝采の大部分はゲーテの
詩のためであろう」
と書いているほどである。
人に示すために書くのでない
日記にまでも、シューベルトの
床しさ謙虚さが斯う反映せずには
いなかったのである。
これを「俺は百年に一度生れる天才」
と信じて疑わなかった
モーツァルトに比べて、
何という大きな性格の違いであろう。
シューベルトの優しく美しき音楽は、
この小児の如き心根に胚胎したのである。
春の陽の如く、聴く者の心を
和めずに措かないのも、
また所以ありと言うべきである。
引用:あらえびす著「クラシック名盤 楽聖物語」P.113
シューベルトは、謙遜の心を持っていた。
それは、自分自身が
偉大な音楽家には到底及ばない
という思いから出たものであったし、
何事にも控えめな性格で
あったせいでもあるだろう。
それは、音楽の波動にも表れていた。
話は変わるが、
シューベルトの友人たちがつけた
あだ名をご存じだろうか?
ドイツ語でSchwammerl(シュヴァムメル)といって、
「小さなキノコ」「小さなマッシュルーム」
という意味だったそうだ。
小柄で少し小太りだったからだが、
友人たちは愛着をこめてそう呼んだ。
そんなシューベルトは、
その後「歌曲の王」とあだ名をつけられるほどの
作曲家となるのである。
シューベルトの「魔王」の秘密と教員時代
その後二、三年、代用教員として、父の
小学校を手伝い、十七歳で
「紡車のグレートヒェン」を含む
十七曲の歌曲を作った。
後世に遺るシューベルトの遺産の
最初のものである。
翌一八一五年は、
百五十七曲の歌曲を書き、
その中には「野薔薇」や、
「魔王」などがあった。
わけても「魔王」は
その年の暮れのある日、
ゲーテの詩を読んで霊感に打たれ、
憑かれたもののようになって、
四五時間で書き上げたが、
シューベルトにはその作曲を助けてくれる
ピアノも何も無かった。
丁度其処に遊びにきたシュパウンは、
シューベルトを伴れて
コンヴィクトに行き、
シューベルト自身伴奏を弾きながら
歌って友人達にやんやと言われた。
引用:あらえびす著「クラシック名盤 楽聖物語」P.114
この教員時代の最初の頃、
シューベルトの楽曲のなかでも有名となった
「紡車のグレートヒェン」を含む
十七の歌曲を作った。
この時、シューベルトは十七歳。
シューベルトは基本的に感性の人であり、
詩という題材に感動したら、
その詩の言霊が
旋律となって聴こえてくるような、
そんな霊感とメロディー作りの才能を
持って居たのだ。
「魔王」は、
ゲーテの詩によって霊感に打たれ、
45時間で書き上げたと言われているが、
本当はほんの一瞬に着想が降りてきてそこから
紡ぎ出すように、巻物を開いていくように
曲の着想が広がっていったのである。
これがシューベルトの秘密であった。
それから、一八二八年三十一歳の若さで
死ぬまで、シューベルトは実に
一千二百の作曲を遺したが、
その半分以上は歌曲である。
シューベルトは、歌うために生まれて
来た人のようであった。
野の鳥の如く歌ったと言ってもよい。
シューベルトの楽想は、
滾々として尽くる時が無く、
手近に詩集があれば、
取り上げては直ちにそれに作曲した。
驚くべき天才の奔騰のために、
偶々そのはけ口を座右の詩に
求めたのかも知れない。
シューベルトに於いては、
作曲は少しも労苦ではなく、
旋律と和声の噴泉が、
絶えず湧き上がって、
その奔注の道を求めて居たのである。
シューベルトは歌劇、交響曲、ミサ、
室内楽、歌曲、その他あらゆる
形式の作曲をし、曾てその天才の泉の
枯渇する気色も見せなかった。
万有還金という言葉があるが、
シューベルトにとっては万有還楽である。
森羅万象悉く音楽の題材ならざるはなく、
その思想の動きがすべて旋律と和声とを
持っていたと言っても差支は無い。
引用:あらえびす著「クラシック名盤 楽聖物語」P.114-115
シューベルトは死ぬまでに
1200曲を遺したと言われているが、
やはりその中心は歌曲にあった。
湯水の如く浮かんでくる着想が、シューベルトに
楽曲作りを急かしたのだった。
現代においてはPOPSが流行っているが、
歌曲と言う意味ではシューベルトは
二百年早かったのかもしれない。
(ただ現代POPSとはだいぶ違っているが)
シューベルトとベートーヴェン
シューベルトは、
音楽家としては同時代の音楽家である
大変尊敬し、仰ぎ見ていた。
シューベルトの弱気は非凡であったが、
そのベートーヴェン崇拝も
容易なものではなかった。
一人でこの老大家を訪ねることなどは
思いも寄らず、一八二二年楽譜屋に
伴れて行って貰って初めて逢ったが、
この聾の老大家が鉛筆と紙を
出してくれたのに、
一句も書くことは出来なかった。
ベートーヴェンはシューベルトの
持って来た作品に目を通して、
和声の誤を二三指摘したが、
若きシューベルトは、
それさえも極りが悪くなって
コソコソと逃げ出してしまった。
ベートーヴェンは其曲を愛好して
甥のカールに演奏して聴かせ、
「シューベルトは
神聖な火を持って居る」と言っていた。
引用:あらえびす著「クラシック名盤 楽聖物語」P.117
同時代に生きているのだから、
積極的な性格の人間であれば
会いに行きたいと思うのだろうが、
シューベルトの性格からなかなか
そう思うことができず、
今の自分ではまだ会うのが
恥ずかしいと思っていたようだ。
楽譜屋の縁でベートーヴェンと
奇跡的にお会いできた際は、
お会いできたという感動で
胸がいっぱいになり、
何を言われたかを
ほとんど覚えていない程だった。
ベートーヴェンに自分の作品に
目を通していただき、
「神聖な火が宿っている」と
言って頂いたことは、
生きているときにその噂を聞いていたら
生涯忘れられない善き思い出となっただろう。
五年後もう一度シューベルトが訪ねた
ときには、ベートーヴェンはもう
死の床に横たわって
口もきけない程の容態であった。
シューベルトは、
この瀕死の老大家をながめて、
手を組んだまま一語もきかずに、
涙を浮かべて帰った。
それから十四日経って、
ベートーヴェンは死んだ。
シューベルトは三十八人の
矩火持の一人として、
棺側に従って
この巨人の遺骸を送ったが、
その頃からシューベルトもまた
健康が優れなかった。(中略)
十月になって十一日間も
飲食しない日もあった。
ベッドから椅子へ行って、
ヨロヨロと帰るのが精一杯だ
と友人に書いていたが、
数日後には大熱を発し、
十一月十九日、
「僕は地上に居られない、
此処にはベートーヴェンは居ない」
と言って死んだ。
ヘンリー・フィンクが言ったように、
それは「金さえあれば
延ばすことのできる命」
であったかも知れない。
引用:あらえびす著「クラシック名盤 楽聖物語」P.117-118
5年後に再びベートーヴェンに
会いに行った時には、
すでにベートーヴェンは瀕死の状態であった。
何か一言でも声をかけたいと思っても、
感情が吹き出してしまいそうで
涙を浮かべて帰ってしまった。
その後一週間程度で
ベートーヴェンが亡くなり、
シューベルトも38人の矩火持の一人として
お棺を見送ったのだが、
その時にずっと音楽の精神的支えであった
ベートーヴェンという
偉大な作曲家を失ったことで
心の中にぽっかり
穴が開いたように感じていた。
その後、持病が悪化し、
食事もできないようになって
「ベートーヴェンはもうこの世にいない。
僕もこの世にいられない」
と言って死んでいったのである。
生涯かけてベートーヴェンを尊敬してやまず、
そして歌曲を作る喜びを失ったシューベルト、
フランツ・ピーター・シューベルトは
1828年11月19日に31歳の若さで亡くなった。
シューベルトの「アヴェ・マリア」とリートの輝き
生涯を通して歌曲を作り続けたシューベルトは、
着想が湧くとどこででも作曲したようだ。
「一寸法師」は友人と話しながら書き、
「美しき水車小屋の乙女」は、
友人の家を訪ねて、その留守の室で
読んだミュラーの詩に魅せられ、
詩集を無断で拝借して来て
作曲したものであった。
この奔騰する天才の奇蹟は、
第一交響曲の完成に十年を要し、
第九交響曲の合唱部の主題を
三十年ノートに秘めて置いた、
ベートーヴェンの
努力振りと比較して、
何という興味深い相違であろう。
引用:あらえびす著「クラシック名盤 楽聖物語」P.119
ここで、友人宅で読んだ
ミュラーの詩に魅せられ、
そのまま無断で借りて
作曲に没頭したと言われる
「美しき水車小屋の乙女」の
第7曲を聴いてみていただきたい。
軽やかな中に、恋愛に生きる
繊細な感情が表現されている
美しい楽曲である。
そして、もう一曲だけ紹介したい。
《歌曲集『湖上の美人』》に収められている
<アヴェ・マリア>である。
そして、この曲集を構成する七曲のうち、
複数の曲、とくに
《エレンの歌Ⅲ(アヴェ・マリア)
D八三九と《捕らわれの狩人》D八四三は
単独の歌曲としても
たいへんな人気があり、
演奏会などでも
しばしば取り上げられている。
たとえばアルネートは、
この曲を歌ったときの感動を、
以下のようにあらわしている。
「教会は真っ暗になり、
深い静けさが私たちを包み、
人々の息づかいが聞こえました。
するとカッティンガーがシューベルトの
《アヴェ・マリア》の前奏を弾き始め、
私は神聖な恐れと畏敬を感じて、
それまでのどんな時よりもうまく、
そしてそれ以降も一度もなかったほど
内面的に、そのすばらしいリートを
歌いました。
どうして私はリートと言うのでしょう?
これは賛歌であり、宇宙の歌であり、
音による祈りであって、
その後も決して二度と
これほどの音楽は作られていないのです。
私はとても感動してしまって、
涙が頬を流れ落ち、
幾つもの音を飲み込んでしまいました」
(『回想』二七一頁以下)
引用:村田千尋著「シューベルト」P.102
この曲はウォルター・スコットの叙事詩
『湖上の美人』の詩に曲をつけたものだが、
宗教音楽として今は語り継がれている。
歌曲として、
これだけ崇高で神聖で畏敬の念を感じる
聖なる歌もなかなかないであろう。
音楽によって信仰の美しさも気高さも崇高さも
魂で感じるこの曲は、200年後にも
決して消え失せずに輝きを放っている。
アヴェ・マリア、
知っている方も多いと思うが、
ぜひ今一度、魂で聴いてみていただきたい。
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