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シューマンの生涯と詩人の恋「美しい五月に」ークララとのロマンスと結婚への苦難

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今日は、シューマンについて探究してみたい。

 

ローベルト・シューマンは

ベートーヴェン亡き後、

19世紀の音楽文化を推し進めるために

尽力した音楽家である。

新しい詩的音楽の時代を理念に掲げ、

作曲活動、そして評論活動を

通して音楽のなかにある真理を探究し、

音楽を単なる楽しみや娯楽でなく

芸術理念のもとに創作した

先駆者のひとりであると言ってよい。

 

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シューマンの生涯(前半生)

 

1810年6月8日、

プロイセン王国のツヴィッカウで

父アウグスト・シューマンと

母ヨハンナ・クリスティアーネ・シュナーベル

の6番目の末っ子として

ローベルト・シューマンは生まれた。

この2年後、プロイセン王国は

ザクセン王国の一部となった。

父アウグスト・シューマンは

著述家を志望し、

22歳で書籍商を開業してヨハンナと結婚、

自宅に4千冊もの書物が置かれ、

さらに1807年に弟と共に

「シューマン兄弟」出版社を立ち上げた。

この父の啓蒙的で温厚で誠実な人柄に

もっとも大きな影響を受けた

シューマンは後年、

両親について

「心のこもった愛情あふれる教育をうけた」と

回想している。

 

ローベルト・シューマンが

本格的に音楽の勉強を始めたのは

七歳からで、聖マリア教会のオルガン奏者、

ヨーハン・ゴットフリート・クンチュに

ピアノレッスンを

受けるようになった。

このツヴィッカウにおける

最初で唯一の師に学び、

今は現存していない「最初の作曲の試み」

という舞曲が書かれたのは

この七歳の頃である。

 

その後、1820年にギムナージウムに進み、

この時期に終生のテーマとなる

「詩と音楽」を、

芸術と人生、文学と音楽を理念だけではなく

実践的に探究しようとした。

このギムナージウムの時期に、12歳で

学生オーケストラを結成し指揮をするという、

のちに「音楽新報」を創刊したことに

見られるような

多くの人々を束ね、

組織を作り機能させる能力を

この少年時代にすでに発揮していたのである。

 

ここで、ギムナージウム時代(1826~7年頃)

に書いたシューマンの詩を紹介したい。

「詩芸術と音芸術」

ああ!ほんとうに素晴らしい。

カメーネ(ミューズ)のリボンで

まだ感覚のない言葉を織っていくことは

詩人は人間を至高の美に運び

大胆に全地を飛んでゆく

天国的なものは天だけが授けうる

この世に神々の居場所はない

詩人を讃えるものは地上にはなく

天がもっとも美しい王冠を授けるのだ

だがさらに素晴らしいのは弦の響きが

詩人の歌を讃え高めるとき

詩の韻律の器を優しく

そよ風の拍子が揺らすとき

音と音、言葉と言葉が競い

音は感じ、詩句は息づき

ついに優しく一つのハルモニーで

二つの芸術が誠実に愛に満ちて抱き合う

引用:藤本一子著「シューマン」P.20 

この詩にシューマンの詩の才能と

文学的素養を見出さずに入られないだろう。

「詩と音楽」に対する探究の精神は、

後年、新しき詩的音楽の時代の芸術理念として

芽吹くのである。

 

シューマンとクララのロマンスと結婚への苦難

ライプツィヒ大学時代、1828年8月から

著名なピアノ教師

フリードリヒ・ヴィークに

ピアノを習い始める。

フリードリヒ・ヴィークには

数多くの弟子がいたが、

一番最高の弟子が、他ならぬ

娘クララ・ヴィークであった。

 

クララ・ヴィークは

シューマンより9歳年下のピアニストで、

11歳でソロ・デビューして天才少女として

謳われ、各地に演奏旅行に行っていた。

 

出会いからは7年後、1835年に、

シューマンはエルネスティーネとの

婚約を解消したが、

シューマンの心が大きく

クララに傾いていったことも

影響していると言われている。

 

「愛するクララよ、私があなたを

どんなに好きだか知っていますか。

では左様なら。

あなたのロバート・シューマン」

と書いたのは一八三五年

シューマン二十五歳、

クララ十六歳の時であった。

翌年、栄光と名声の中に輝く

クララの許へ、

シューマンの求婚の手紙が届けられ、

クララはそれに良き返事を与えた。

クララとシューマンとの純潔な情熱は、

取交した手紙や、今に残る幾多の

文献によって想像することができる。

二人は五年の長い間、

真に余念もなく愛し合い、

一徹な父の許しを受けるために、

あらゆる困難と闘って行ったのである。

引用:あらえびす著「クラシック名盤楽聖物語」P.170

1835年当時、シューマンは

「音楽新報」編集長として

名を知られてはいたものの、

天才ピアニストとして

世界を席巻しようというクララとは

比較にならず、

クララの父フリードリヒ・ヴィークは

二人の仲を知って狂乱状態に陥り、

交際を妨害し続けるのであった。

 

フリードリヒ・ヴィークの

妨害はエスカレートし、

ヴィーク家の遺産相続の

裁判にまで発展したが、

結局裁判で結婚に対する法的許可が下り、

法廷闘争を勝訴したシューマンとヴィークは

1840年9月12日、クララの誕生日の前日に

結婚式を挙げた。

間もなく父ヴィークと仲直りはしたが、

過労と神経の酷使から、シューマンの

上に暗い陰影が射し始めたのは

如何にも惜しいことである。

その為に音楽学校の教授も捨てたが、

次第に気難しくなり、

次第に病的になる神経を

どうすることも出来なかった。

一時小康を得て、オペラを書いたり、

指揮者になったりしたが、

気鬱症は次第に募って、

一八五六年二月には突然発作を

起こしてライン河に投じ、

その時は幸い人に救われたが、

同年七月、終に

四十六歳の若さで世を了った。

引用:あらえびす著「クラシック名盤楽聖物語」P.172

前半生で長くなりすぎて

後半生まで詳しく紹介できないのが残念だが、

クララとの結婚後、

様々な活動をしつつも

気鬱症が募り、

最後は病床で46歳の幕を閉じた。

 

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シューマンによるダーヴィト同盟と音楽新報創刊

そのローベルト・シューマンの功績として

外してはならないのが、

「ダーヴィト同盟」の立ち上げ、

そして「音楽新報」創刊である。

 

「ダーヴィト同盟」とは、

”新しい芸術の時代への闘い”という

ロマン主義文学者たちのキーワードのもと、

フィリシテ人(俗物)に対抗する

芸術サークルという理念により、

シューマンが構想したものである。

 

1834年ついに

「ダーヴィト同盟」が現実のものとなり、

「ライプツィヒ音楽新報」第1号

創刊へとつながっていく。

その後、編集長シュンケが

亡くなったこともあり、

誌名を「音楽新報」に改め、

シューマンが編集長となり

西洋諸国に音楽情報を配信する事業を

試みることになったのである。

 

ここでは、晩年に「音楽新報」に掲載された

シューマンがブラームス

出会った時のエピソードを

紹介したい。

「新しい道」

何年もの歳月が過ぎたーそれはほとんど

私がこの雑誌の編集に捧げた年月と

同じほど、いわば十年ほどにもなる。

この豊かな思い出のある領域で

かつては数々の発言を行ったのだったが。

この十年、私は緊張した創作活動を

行ってきたが、しばしば、

音楽の新しい力を告げるような

数多くの才能に

刺激を受けることもあった。

・・・私は、最大の関心を傾けながら、

こうした前駆のあとで、いつか突然、

一人の人物が現れるだろう、

現れるに違いないと思っていた。

時代の最高の表現を理想的に語るよう

召命をうけた人、段階的にその力を拓いて

巨匠であることを示すような人でなく、

ちょうどクロニオン(ゼウス)の頭から

完全武装して飛び出してきた

ミネルヴァのような人が。

そして、彼は来た。

その揺りかごが優雅の女神と英雄に

見守られていた若者が。

彼の名はヨハネス・ブラームスといい、

ハンブルグの生まれである。

・・・もし、彼が

その魔法の杖を振り下ろし、

合唱と管弦楽において大きな響きの力が

彼に与えられるなら、

精神の世界になお驚くべき光景が

あらわれるだろう。

・・・どんな時代にも、近しい精神の

ひそかな同盟というものが存在する。

そこに属する盟友たちは、

芸術の真理をますます

明るく照らすために、

いたるところ喜びと祝福を広げつつ、

いっそうその環をしっかりと結ぶがよい。

ローベルト・シューマン

引用:藤本一子著「シューマン」P.132-133

シューマンが音楽新報に投稿した

「新しい道」という記事は、

ドイツ全土で掲載され、

非常な反響を巻き起こした。

まだヨハネス・ブラームスの作品が

一つも世に出ていなかった時代である。

 

シューマンの性格と詩人の恋

ここで、改めて

いくつかのシューマン評を紹介したい。

シューマンは十九世紀の

ロマン派作曲家中、

最も学殖に富み、最も生真面目な、

最も芸術的な人であった。

彼の生涯には、

天才の気まぐれらしいものは一つも無く、

その作品には、市場や世評を顧慮して

生産されたと思わしむるものは

一つも無い。

シューマンの伝記と作品に接する時、

野暮ったいほどの生真面目さと、

狂気にまで押し拡げていった、

突き詰めた心持の重圧を

感じさせずには措かないだろう。

引用:あらえびす著「クラシック名盤楽聖物語」P.168

ローベルト・シューマンという音楽家は、

19世紀音楽家のなかでは

現代に有名な楽曲は少ないが、

音楽芸術の理念を構想し、

新しい詩的音楽の時代への闘いを

生涯をかけて貫き、

音楽評論と作曲という分野で

実践して見せたという意味で、

非常に興味深く

魅力ある音楽家であると感じる。

ピアノ曲にもまして、シューマンを

特色づけるものは、

そのリードであった。

曾てシューベルトが最高至純の域にまで

押し上げたドイツのリードを、

シューマンはさらに変わった方法に

よって高度の発達完成を遂げた。

シューベルトは、ドイツの詩に

最上の音楽的表現を与えるために、

美しいメロディーを書き、

重要な伴奏部を附した。

シューベルトより後に生まれて、

高い教養を持ったシューマンは、

師を選ぶことに於いて

先ずシューベルトの及びも付かぬ

好条件を与えられ、

さらにピアニストであり、

ピアノ作曲者であるシューマンは、

その歌曲に、驚くべき巧緻な背景

ー伴奏部を与えることに成功した。

引用:あらえびす著「クラシック名盤楽聖物語」P.173

シューマンが1840年に作曲した

「詩人の恋」第1曲、

「美しい五月に」をお聴きいただきたい。

クララとの結婚を直前に控えた時期に

作られた歌曲である。

 

 

美しい五月に(歌詞)日本語訳

Im wunderschönen Monat Mai,
Als alle Knospen sprangen,
Da ist in meinem Herzen
Die Liebe aufgegangen.

とても美しい五月に
すべてのつぼみが開く
僕の心の中には
恋が芽生えた

Im wunderschönen Monat Mai,
Als alle Vögel sangen,
Da hab ich ihr gestanden
Mein Sehnen und Verlangen.

とても美しい五月に
鳥たちはみな歌う
僕は彼女に打ち明けた
彼女への憧れと想いを

シューマンの最も人間的な性格と、

その絶えざる苦悩は、

その作品を暗く晦渋にしたが、

それだけに、内面的で、

思想の裏付けがしっかりしている為に、

時代を同じゅうした人の作曲に

この人の音楽ほど

興味の深いものはなく、

この人ほど、純粋に芸術的なものは少い。

引用:あらえびす著「クラシック名盤楽聖物語」P.172

 

そしてもう一曲、

ローベルト・シューマン作曲の楽曲のなかで

一番有名と言われる楽曲

「トロイメライ」(「子供の情景」第七曲)を

ホロヴィッツの名演でお聴きいただきたい。

私がこの曲を初めて聴いたとき、

美しい旋律に衝撃を受け、

誰の作曲か調べた記憶がある。

この美しい旋律、

そして音楽家の精神と努力というものは、

つくづく時代を超えて

多くの人々に影響を与えるものだ

と信じてやまない。

 

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  • この記事を書いた人

ありおん

Aoide Production代表。”文化の創りかた”ブログ管理人。 Vyond、Premiere proで動画制作|HP制作|楽曲制作|ブログ|新しい文化をカタチに!仕事依頼はAoideProductionホームページをご覧ください。

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