3歳で、
アコーディオンを一曲まるごと弾いた。
15歳で、
「生まれながらの音楽家」と断言された。
そして1907年、
自作の交響曲で語ったとおり、
運命の打撃が3度、本当に襲った。
今回はグスタフ・マーラーについて、
音楽の神秘を探究してみたいと思う。
1.マーラーの幼少時代<生まれながらの音楽家>
グスタフ・マーラーは、
1860年7月7日、
オーストリア帝国の属国ボヘミア王国、
イーグラウ近郊のカリシュト村に生まれた。
父ベルンハルトはユダヤ人。
最初は運送業者のような
仕事をしていたが、
勉強には熱心で、
「御者台の学者さん」とあだ名された。
ユダヤ人が任意居住権を得るとすぐ、
家族でイーグラウに移住する。
アルコール醸造所を手に入れ、
居酒屋を開業したのだ。
母マリーにとって、
この結婚は望んだものではなかった。
「別の男との結婚を望んでいたが、
両親の意向と
父ベルンハルトの強い要望で
仕方なく結婚をした」という
アルマ・マーラーの回想記が残っている。
性格は水と油。
父は頑固で、
母は優しさそのものであった。
だが父ベルンハルトは、
マーラーやほかの兄弟の教育には熱心で、
音楽の道も積極的に支援する親であった。
イーグラウで幼少期を過ごした
マーラーの、
面白いエピソードを紹介したい。
たぶん三歳の時、
僕はアコーディオンを
手に入れ、
聞きかじったものを
すべて集めて
引いてみるうちに、
やがて一曲を
終わりまで弾いていた。
僕がまだ四歳にならない
ある日、
こっけいな出来事が
起こった。
軍楽隊がーー
僕は子供時代を通して、
これに魅了され続けたーー
朝、家の前を
行進していたったのだ。
僕がそれを聴いたのと、
部屋を抜け出したのは
同時だった。
ほとんど下着同然の姿で
ーーまだ服を
着せてもらっていなかった
のでーー
僕は自分のアコーディオンを
持って、
兵士たちの列について
歩いていった。
しばらくたってから、
ようやく近所の
おばさんたち二、三人が
市場で僕をつかまえた。
迷子になって
不安に襲われた僕に、
おばさんたちは、
兵士たちが演奏していた曲を
アコーディオンで
弾いてみせたら
家に連れて帰ってあげると
約束した。
そこで僕はさっそく
果物売りの屋台に腰かけて
弾き始めたが、
その演奏は市場の物売り女や
料理女、
その他の通行人たちを
大いに楽しませた。
それから僕は、
大歓声と笑いの渦のなかを、
僕の失踪で大パニックに
陥っていた両親のところへ
かついでいかれた。
引用:村井翔著「マーラー」P.37-38
物心つくかつかないかの3歳で、
アコーディオンを耳コピで
一曲まるごと弾いていた。
それだけでも驚きである。
さらに、
イーグラウ駐屯地の軍楽隊が
家の前を行進していった時、
一瞬で心を惹かれ、
アコーディオンを持って
兵士たちと一緒に歩いていった。
演奏していた曲を
アコーディオンで弾いて、
市場の人々を大いに楽しませたという。
3歳児にして、
音楽で人を楽しませる才能は
すでに出ていたといえるだろう。
1866年には普墺戦争が起こる。
オーストリア軍は、
プロイセン軍にさんざんに敗れた。
近郊での戦争、そして敗戦。
そういう状況を、
幼少期に過ごしたのである。
その後マーラーは、
イーグラウのカトリック教会の
聖歌隊に加わり、
宗教音楽の演奏を経験して
音楽的素養を深めていった。
15歳になると、
後援者のグスタフ・シュヴァルツとともに、
ウィーン音楽院ピアノ科主任の
ユーリウス・エプシュタインの
自宅を訪れる。
シュヴァルツの旧知である。
ここで、
ピアノ演奏を聴いてもらう機会を得た。
この時のエプシュタインの
エピソードを紹介しよう。
エプシュタインはまず、
自信にあふれた
燃えるようなマーラーの
表情に驚かされたようだ。
それはひょろりと痩せた
十五歳の少年には
ふさわしからぬものだった。
彼は後に語っている。
「彼は、
どんな障害もものともせず、
自分の運命を
切り開いていくことのできる
能力を完璧に備えた
人間だという印象を与えた」。
その後しばらくして、
オーディションの結果を
聞きに、
マーラー父子が
エプシュタインのもとを
再び訪れた。
「マーラーさん、
あなたの息子は
生まれながらの
音楽家です!」
とエプシュタインは
ベルンハルトに断言した。
ちょっとピアノを
聴いただけで、
息子の一生を
決めてしまうのですか、
と躊躇する父にむかって、
エプシュタインは
さらに続けた。
「私の判断に
間違いはありません。
この若者は
スピリッツ(霊感)を
持っていますか、
お父さんの
スピリッツ(蒸留酒)の
工場を継ぐことは
ないでしょう」
引用:村井翔著「マーラー」P.40
15歳のマーラーと初めて会った
エプシュタインは、
”どんな障害をもものともせず
自分の運命を切り開いていける能力を
完璧に備えた人間”
という印象を受けたと語っている。
やせた風貌からにじみ出る、
相当な意志の強さを感じたのだろう。
父ベルンハルトには、
「あなたの息子は
生まれながらの音楽家です」
と断言した。
霊感に満ちた演奏をしたのか。
それとも、
直感し確信する何かがあったのか。
エプシュタインは、
この少年の中に何かを感じ取ったのだ。
その後マーラーは、
ウィーン音楽院に入学する
(1875年・15歳)。
エプシュタインにピアノを学びながら、
和声学をロベルト・フックスに、
対位法や作曲をフランツ・クレンに学んだ。
1877年には
ウィーン大学哲学部に入学し、
教員でもあったアントン・ブルックナーと
深い交友関係を結んでいく。
ウィーン音楽院卒業後は、
指揮者として活躍していくことになる。
2.マーラーの創作における霊感(インスピレーション)《宇宙が奏でる一楽器となる》
ここでは、
マーラーの作曲における霊感について
探究してみたい。
霊的インスピレーションの
探究をするには、
何を信じているか、
どこからインスピレーションが
下りているのか、が重要である。
ユダヤ人であるマーラーは、
職業上の理由により、
ユダヤ教からキリスト教に改宗した。
その中での宗教的葛藤が、
彼を普遍的な霊性への探究へと
駆り立てたといわれている。
マーラーは
自身のアイデンティティについて、
「三重の意味において故郷がない」
と語った。
「オーストリア人の間のボヘミア人、
ドイツ人の間のオーストリア人、
そして全世界の国民の間のユダヤ人」。
この寄る辺のなさが、
自分自身の存在に対する
深い探究心につながっていたのだろう。
マーラーの人生の中で、
霊感を得たエピソードを
一つ紹介したい。
私は長い間、
最終章に合唱を
導入しようという考えを
抱いていましたが、
ベートーヴェンの
うわべだけの模倣と
とられかねないという
懸念から、
何度も何度もそれを
ためらっていたのです!
ちょうどそんな時、
ビューローが亡くなり、
私はここハンブルクで
彼の葬儀に参列しました。
ー私が死者をしのびながら
座っていた時の気分は、
まさしく私があたためていた
作品の精神そのものでした。
ーその時、
合唱がオルガン席から
クロプシュトックのコラール
「汝、よみがえらん」を
歌い始めたのです!
それは稲妻のように
私を貫きました。
そしてすべてがくっきりと、
明確な姿をとって
私の魂の前に
立ち現れました!
創作者とは、
このような稲妻を
待っているもの、
これが「聖なる受胎」
なのです!
引用:村井翔著「マーラー」P.80
ハンス・フォン・ビューローの葬儀に
参列した、まさにその時である。
あたためていた作品の
精神そのものの気分で座っていると、
コラール「汝、よみがえらん」の
合唱が聴こえた。
稲妻のようにマーラーを貫く
衝撃とともに、
楽曲が明確な姿をとって現れた
と表現している。
マーラーの言葉でいうと「聖なる受胎」。
理性で何度もためらっていた
合唱の導入の部分が、
一瞬の稲妻のごとき
ひらめきによって、
形となって現れたのである。
天才の人格は、
仕事をしている間は
「もはや僕のものではない」。
これが後にはアルマをも
嘆かせる
「天才という肉食獣」の
宿命である。
バウアー・レヒナーの
回想記を用いて
補足するなら、
ここでマーラーが
述べているのは
「人は作曲するのではなく、
作曲されるのだ」
ということである。
言い古された
陳腐な言葉だが、
「霊感(インスピレーション)
が作曲家に訪れる瞬間、
彼の人格は空虚になり、
霊感を受け入れる
容器となる。
先の言葉でいえば
「宇宙が奏でる一楽器」
となる。
再びバウアー・レヒナーの
伝えている
マーラーの言葉を借りれば、
この時、作曲家は
「無意識の、不思議な力」に
従うのである。
引用:村井翔著「マーラー」P.86-87
マーラーの言葉でいえば、
「人は作曲するのではなく、
作曲されるのだ」。
「霊感(インスピレーション)が
作曲家に訪れる瞬間、
彼の人格は空虚になり、
霊感を受け入れる容器となる。
先の言葉でいえば
『宇宙が奏でる一楽器』となる。」
と述べている。
彼のいう「無意識の、不思議な力」に
従って曲が作られるという感覚。
それは、
アーティストが神懸って
一晩で偉大な絵を描くような、
そういう不思議な力なのかもしれない。
マーラーは学生時代から、
グスタフ・テオドール・フェヒナーを
読んでいた。
宇宙全体が意識を持つ存在であると
考える汎神論者である。
伝統的宗教観のみならず、
宇宙は生きており、
自然界のすべてに
霊的な力が宿るという
宇宙観を持っていた。
友人への手紙では、
「大宇宙が響き始める様子を
想像してください。
それは、もはや人間の声ではなく、
運行する惑星であり、太陽です」
と述べたといわれる。
宇宙がハーモニーを奏でるという
思想を持ちながら、
作曲をしていたのだ。
「創作ということ、
作品が出来上がる
ということは、
最初から最後まで
神秘的な行為だ。
なぜなら人は自分自身、
意識できぬままに、
自分の外からやってくる
霊感によって、
何かを作らねば
ならないからだ。
そしてその作品については、
どのようにして
出来上がったか、
後からはもうほとんど
把握できないのだ」
引用:村井翔著「マーラー」P.87
マーラーが語った作曲の神秘。
それは、
霊感を受け取れる人にとってみれば、
不思議な力に従って楽曲を創作し、
その後の詳細は覚えていない。
そういうことが起こりうることを
示している。
どのようにして
霊感を受けられる器となったのかは
分からない。
だが、
深く自己探求をした人であることは
想像できるだろう。
3.マーラー 交響曲 第 5 番 アダー ジェットに込めたアルマへの愛
マーラーにとって、
アルマ・マーラーとはどんな女性、
どんな妻だったのだろうか。
二人の年齢差は19歳。
アルマ・シンドラーは、
作曲家アレクサンダー・
ツェムリンスキーに師事する
作曲家でもあった。
熱愛の末、
結婚にあたってマーラーが求めたのは
「作曲の禁止」であった。
彼はアルマを深く愛していた。
だが芸術家としてではなく、
自身のミューズとして、
献身的な妻としての支えを
求めたのだった。
指揮者としてオーケストラを
率いるときと同じく、
家庭でも亭主関白なマーラー。
自己犠牲を強いられながらも、
結婚を受け入れたアルマ。
二人の関係は、
次第に変化を遂げていく。
アルマは最初、
指揮者マーラーの妻として、
作曲家マーラーの偉大さは
あまり感じていないようだった。
それが第3交響曲の初演で、
大きく変わる。
アルマの回想記ではこう書かれている。
私は見知らぬ人々の間に
座っていた。
一人になりたかったので、
身内の者たちと
一緒に座るのを断ったのだ。
私の感動は言葉では
言い尽くせぬほど
大きかった。
私は一人ひそかに泣き、
また笑った。
突然、
私の最初の子どもが
お腹のなかで動くのを
感じた。
私はこの作品によって、
余すことなく
マーラーの偉大さを
確信するに至ったので、
その夜、
喜びの涙にむせびながら、
この確信を彼に伝え、
献身的な愛と
永遠に彼のためだけに
生きる決意を語った。
この瞬間から、
それまでは単なる予感に
過ぎなかった
彼の全き意義が、
私にとって
常に変わることなく
意識されるものとなったのだ。
引用:村井翔著「マーラー」P.132
アルマの回想記には、
ある意味での誇張や省略、
演出が含まれる。
世の音楽史研究家のなかでは、
それが通説らしい。
それでも回想記によれば、
この第3交響曲の初演を聴いた
感動を胸に、
アルマは改めて決意した。
献身的な愛と自己犠牲、
マーラーに尽くすことを。
マーラーは第五交響曲の
スケッチを持ってきていた。
そのうち二つの楽章は
仕上げられていたが、
残りはまだ構想の段階だった。
私は小さな音で
ピアノを弾くようにしたが、
彼に尋ねてみると、
彼の作曲小屋には
遠く離れた森の中に
あるにもかかわらず、
やはり聞こえていたらしい。
そこで私は商売替えをして、
第五交響曲の
出来上がった分を
片っ端から
清書することにした。
私の仕事はいつも
とても速かったので、
彼が草稿を仕上げると、
その数日後には
私の清書が
出来上がっているのだった。
彼はだんだん、
各声部を完全には
書いてしまわないように
なっていった。
書かれているのは
最初の数小節だけだった。
そこで私はこの頃から
総譜を読むこと、
書きながら
音を聴くことを覚え、
ますます本当に役に立つ
彼のための助手に
なっていった。
引用:村井翔著「マーラー」P.134
アルマはマーラーの
献身的な妻でありながら、
有能な助手としても
役にたとうと頑張っていた。
長女、そして次女が生まれ、
しばらくは幸せな家庭だった
といえるだろう。
ある時期に、
長女の不幸な死が訪れる。
マーラーの病気や作曲への没頭から、
アルマの精神的支えが崩れていった。
そして1910年、
アルマは建築家
ヴァルター・グロピウスと
不倫関係になり、
結婚生活に危機が訪れる。
このことを知ったマーラーの
動揺たるや、
相当なものだったようだ。
アルマを失う恐れや不安を
払拭すべく、
フロイトに診察をしてもらうことを
決意する。
フロイトとの診察結果から、
マーラーはアルマとの関係性を
反省した。
アルマの作曲した歌曲の
出版をする方向に動き、
アルマの作曲活動を
回復させることにしたのだった。
結婚にあたって
「作曲の禁止」を求めた男が、
妻の歌曲を出版する側に
回ったのである。
最後の未完の交響曲とされる
第十交響曲の草稿には、
「君だけが知っている」
「君のために生きる!
君のために死ぬ!
ーアルムシー(アルマの愛称)」
という言葉も残っている。
アルマとの和解を心から願い、
作曲をしていたことがうかがえる。
マーラーがアルマに捧げ、
アルマへの愛を投影したとされる
「交響曲5番 アダージェット」。
マーラーの深い愛、
アルマという愛の触媒の存在が
いたからこそ、
あのような名曲として
語り継がれるものとなった
といえるかもしれない。
芸術家にとって
深く愛する存在がいることは、
その感情表現としての創作に
大きな影響を与えるのだろう。
マーラーのアルマへの深い愛を
感じとりながら、
交響曲5番アダージェットを
聴いていただきたい。
4.マーラー 「亡き子をしのぶ歌」と長女の死<人生は芸術を模倣する>
もう一つ、
マーラーの人生を語るうえで
興味深いエピソードがある。
「マーラーの人生が
芸術を模倣したのではないか」
ということである。
もちろん、
アルマの回想記などで語られ、
それが現実であるかのように
演出されたという点もなくはない。
それにしても、
事実として模倣したように
見える面があるのだ。
オスカー・ワイルドは
『嘘の衰退』のなかで、
「人生は、
芸術が人生を模倣するよりも
はるかに、芸術を模倣する」
と語っている。
「芸術は人生を模倣する」という
アリストテレス的な伝統的解釈の、
逆説としていったものだった。
マーラーにも有名な言葉がある。
シベリウスとの対話の中で語られた
「交響曲は
世界のようでなければならない。
すべてを包含しなければならない」。
これもまた、
「作品が世界を写し、人生を写す」
という考え方につながるものを、
自身が語っていたということになる。
具体的にマーラーの
「芸術が人生を模倣した」点として
挙げられるのは、次の二つだ。
①「亡き子をしのぶ歌」という歌曲を
作曲した数年後、
長女が4歳で急死してしまう。
②「交響曲第6番」《悲劇的》のなかで
運命のハンマーが
3度主人公を打つと語ったあと、
マーラーの人生で
3度運命の打撃が襲う。
彼は詩人リュッケルトの詩に基づく
連作歌曲で、
「亡き子をしのぶ歌」を作曲していた。
その時、
マーラー夫妻も娘二人も、
とても幸福な時期を送っていたのだった。
《亡き子をしのぶ歌》を
作曲したマーラーは、
三年後に本当に
長女を失ってしまう。
「人生が芸術を模倣する」
ことは、
マーラーの生涯をたどる
誰もが
引き付けられざるをえない
不思議だ。(中略)
「芸術が人生を模倣する
というより、
人生が芸術を模倣するのだ」
と述べたのは
オスカー・ワイルドの
対話形式によるエッセイ
「嘘の衰退」(一八八九)
だが、
ワイルド自身の人生も、
小説
『ドリアン・グレイの肖像』
を模倣するように、
やがて凋落の道をたどった。
(中略)
引用:村井翔著「マーラー」P.136-137
これについてアルマの回想記では、
「神を冒涜する行為だ」
「悪魔を壁に描くようなもの
(不幸を招く)」として、
激怒していたようだ。
娘が2人元気に暮らしているのに、
なんでこんな曲を書くのか
理解ができない、と。
マーラーにとって
創作は神秘的なものであり、
天から天下るインスピレーションに
突き動かされて創作するもの。
それゆえに、
予言のように見えてしまう
面もあるのだろう。
5.マーラー 「交響曲第6番」《悲劇的》と運命のハンマーの予言
そして第六交響曲では、
次のようなエピソードがある。
マーラーの場合は
すべてが偶然であるだけに、
われわれはいっそう
その不思議さに
魅せられざるをえないのだ。
おまけに彼は
第六交響曲最終楽章の
プログラムを
アルマにこう伝えていた。
「主人公は運命の打撃を
三回受ける。
その三回目が
木を切り倒すように、
彼を打ち倒してしまう」。
(中略)
翌〇七年には本当に
三回の運命の打撃が
マーラーに
襲いかかるのである。
引用:村井翔著「マーラー」P.137
マーラーの人生において、
1907年は最悪の年だっただろう。
この年に本当に、
3度の運命の打撃が襲ったのだった。
・長女マリアの急死
・ウィーン宮廷歌劇場監督の辞任
・致命的な心臓病と診断された
この現実が起きた後、
マーラー自身がこの第6交響曲を
予言的な曲として恐れるようになった。
後に運命のハンマーを、
3回から2回に改変したといわれている。
英雄が運命の打撃を三度受ける
ストーリーを、
自分自身で交響曲として表現した。
その楽曲を、
予言的な曲として恐れる。
霊感によって創作された
楽曲そのものが、
マーラーを器として
天から降ろされた予言の曲だった。
それを恐れて、
自分の力で改変してしまった。
そういう感覚に近いのかもしれない。
マーラーは第9番交響曲を創作する際も、
第9を作った後に死んだ
ベートーヴェンやブルックナーを思った。
わざわざ第9交響曲と名付けず、
「大地の歌」と名付けたほどだったという。
バーンスタインは「大地の歌」を
「ほとんど禅的な死の瞑想」
と語ったといわれる。
第9交響曲も”死”がテーマであるがゆえに、
晩年のマーラーの死への旅立ちを
予言したような順序にもなっているのだ。
ここで、
「ほとんど禅的な死の瞑想」と語った
とされるバーンスタイン指揮の
「大地の歌」をお聴きいただきたい。
晩年、
アメリカのニューヨークにまで
移住しながら、
回復の見込みがないと悟り
ウィーンに戻る。
51歳の6週間前に、
敗血症で死去したのだった。
最後の言葉は
「モーツァルトル!」といわれている。
マーラーの人生全体が
「自身の作品を模倣した」
といわれるほど、
インスピレーションと芸術性に満ちた
稀有なる人生であった。
世界を包含しうる交響曲にまで
高めたという点で、
19世紀のクラシック音楽の高みを
作った偉人といえるだろう。
家の前を行進する軍楽隊を、
アコーディオンを抱えて
追いかけた3歳の少年。
その人生は、
51歳を待たずに閉じた。
人生が芸術を模倣したのか、
芸術が人生を予言したのか。
答えは、交響曲の中にある。
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