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マーラーの交響曲に込められた予言とアルマへの愛<人生は芸術を模倣する>

今回はグスタフ・マーラーについて音楽の神秘を探究してみたいと思う。

 

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1.マーラーの幼少時代<生まれながらの音楽家>

グスタフ・マーラーは、1860年7月7日に、オーストリア帝国の属国ボヘミア王国のイーグラウ近郊のカリシュト村に生まれた。

マーラーの父ベルンハルトはユダヤ人で最初運送業者のような仕事をしていたが、「御者台の学者さん」とあだ名されるように勉強には熱心だった。ユダヤ人が任意居住権を得てからすぐイーグラウに家族で移住し、アルコール醸造所を手に入れ、居酒屋を開業したのだ。

マーラーの母マリーにとって父ベルンハルトとの結婚は望む結婚ではなく、「別の男との結婚を望んでいたが、両親の意向と父ベルンハルトの強い要望で仕方なく結婚をした」というアルマ・マーラーの回想記が残っている。性格は水と油のように合わず、父は頑固で母は優しさそのものであった。

だが父ベルンハルトは、マーラーやほかの兄弟の教育については熱心で、音楽の道も積極的に支援する親であった。

イーグラウで幼少期を過ごしたマーラーの面白いエピソードを紹介したい。

たぶん三歳の時、僕はアコーディオンを手に入れ、聞きかじったものをすべて集めて引いてみるうちに、やがて一曲を終わりまで弾いていた。僕がまだ四歳にならないある日、こっけいな出来事が起こった。軍楽隊がーー僕は子供時代を通して、これに魅了され続けたーー朝、家の前を行進していたったのだ。

僕がそれを聴いたのと、部屋を抜け出したのは同時だった。ほとんど下着同然の姿でーーまだ服を着せてもらっていなかったのでーー僕は自分のアコーディオンを持って、兵士たちの列について歩いていった。

しばらくたってから、ようやく近所のおばさんたち二、三人が市場で僕をつかまえた。迷子になって不安に襲われた僕に、おばさんたちは、兵士たちが演奏していた曲をアコーディオンで弾いてみせたら家に連れて帰ってあげると約束した。

そこで僕はさっそく果物売りの屋台に腰かけて弾き始めたが、その演奏は市場の物売り女や料理女、その他の通行人たちを大いに楽しませた。それから僕は、大歓声と笑いの渦のなかを、僕の失踪で大パニックに陥っていた両親のところへかついでいかれた。

引用:村井翔著「マーラー」P.37-38

 

物心つくかつかないかのわずか3歳のマーラーが、アコーディオンを耳コピで一曲まるごと弾いていたというのも驚きである。

そしてこの時代のイーグラウの駐屯地の軍楽隊が家の前を行進していった時に一瞬で心惹かれてアコーディオンを持って兵士たちと一緒に歩いていった。演奏していた曲もアコーディオンで演奏して市場の人々を大いに楽しませたというから、3歳児で音楽で人を楽しませる才能はすでに出ていたといえるだろう。

1866年には普墺戦争が起こり、オーストリア軍はプロイセン軍にさんざんに敗れることになり、近郊での戦争、そして敗戦という状況を幼少期に過ごしたのである。

その後マーラーはイーグラウのカトリック教会の聖歌隊に加わり、宗教音楽の演奏を経験したり、音楽的素養を深めていった。

15歳になるとマーラーは後援者のグスタフ・シュヴァルツとともに、シュヴァルツの旧知であったウィーン音楽院のピアノ科主任のユーリウス・エプシュタインの自宅を訪れ、ピアノ演奏を聴いてもらう機会を得た。

この時のエプシュタインのエピソードを紹介しよう。

エプシュタインはまず、自信にあふれた燃えるようなマーラーの表情に驚かされたようだ。それはひょろりと痩せた十五歳の少年にはふさわしからぬものだった。
彼は後に語っている。「彼は、どんな障害もものともせず、自分の運命を切り開いていくことのできる能力を完璧に備えた人間だという印象を与えた」。

その後しばらくして、オーディションの結果を聞きに、マーラー父子がエプシュタインのもとを再び訪れた。「マーラーさん、あなたの息子は生まれながらの音楽家です!」とエプシュタインはベルンハルトに断言した。

ちょっとピアノを聴いただけで、息子の一生を決めてしまうのですか、と躊躇する父にむかって、エプシュタインはさらに続けた。「私の判断に間違いはありません。この若者はスピリッツ(霊感)を持っていますか、お父さんのスピリッツ(蒸留酒)の工場を継ぐことはないでしょう」

引用:村井翔著「マーラー」P.40

15歳のマーラーと初めて会ったエプシュタインは、”どんな障害をもものともせず自分の運命を切り開いていける能力を完璧に備えた人間”という印象を受けたと語っている。

やせた風貌からにじみ出た、相当な意思の強さを感じたのだろう。父ベルンハルトに、「あなたの息子は生まれながらの音楽家です」と断言するほど、霊感に満ちた演奏をしたか、直感し確信する何かをエプシュタインは感じ取ったのだ。

その後マーラーはウィーン音楽院に入学(1875年・15歳)、エプシュタインにピアノを学びながら和声学をロベルト・フックスに、対位法や作曲をフランツ・クレンに学ぶ。

1877年にはウィーン大学哲学部に入学し、教員でもあったアントン・ブルックナーと深い交友関係を結んでいく。ウィーン音楽院卒業後、指揮者として活躍していくことになる。

 

2.マーラーの創作における霊感(インスピレーション)《宇宙が奏でる一楽器となる》

ここではマーラーの作曲における霊感について探究してみたい。

霊的インスピレーションの探究をするには、何を信じているか、どこからインスピレーションが下りているのかということが重要である。

ユダヤ人であるマーラーにとって、ユダヤ教から職業上の理由によりキリスト教に改宗した中での宗教的葛藤は彼を普遍的な霊性への探究へと駆り立てたといわれている。

「三重の意味において故郷がない」マーラーは自身のアイデンティティについて「オーストリア人の間のボヘミア人、ドイツ人の間のオーストリア人、そして全世界の国民の間のユダヤ人」と語ったが、この寄る辺のなさが自分自身の存在に対する深い探究心につながっていたのだろう。

マーラーの人生の中で霊感を得たエピソードを一つ紹介したい。

私は長い間、最終章に合唱を導入しようという考えを抱いていましたが、ベートーヴェンのうわべだけの模倣ととられかねないという懸念から、何度も何度もそれをためらっていたのです!

ちょうどそんな時、ビューローが亡くなり、私はここハンブルクで彼の葬儀に参列しました。ー私が死者をしのびながら座っていた時の気分は、まさしく私があたためていた作品の精神そのものでした。

ーその時、合唱がオルガン席からクロプシュトックのコラール「汝、よみがえらん」を歌い始めたのです!

それは稲妻のように私を貫きました。そしてすべてがくっきりと、明確な姿をとって私の魂の前に立ち現れました!創作者とは、このような稲妻を待っているもの、これが「聖なる受胎」なのです!

引用:村井翔著「マーラー」P.80

ハンス・フォン・ビューローの葬儀に参列したまさにその時、あたためていた作品の精神そのものの気分で座っているとコラール「汝、よみがえらん」の合唱が聴こえ、稲妻のようにマーラーを貫く衝撃とともに楽曲が明確な姿をとって現れたと表現している。

マーラーの言葉でいうと「聖なる受胎」、このように理性で何度もためらっていた合唱の導入の部分は、一瞬の稲妻のごときひらめきによって形となって現れたのである。

 

天才の人格は、仕事をしている間は「もはや僕のものではない」。これが後にはアルマをも嘆かせる「天才という肉食獣」の宿命である。バウアー・レヒナーの回想記を用いて補足するなら、ここでマーラーが述べているのは「人は作曲するのではなく、作曲されるのだ」ということである。

言い古された陳腐な言葉だが、「霊感(インスピレーション)が作曲家に訪れる瞬間、彼の人格は空虚になり、霊感を受け入れる容器となる。先の言葉でいえば「宇宙が奏でる一楽器」となる。

再びバウアー・レヒナーの伝えているマーラーの言葉を借りれば、この時、作曲家は「無意識の、不思議な力」に従うのである。

引用:村井翔著「マーラー」P.86-87

マーラーの言葉でいえば、「人は作曲するのではなく、作曲されるのだ」「霊感(インスピレーション)が作曲家に訪れる瞬間、彼の人格は空虚になり、霊感を受け入れる容器となる。先の言葉でいえば『宇宙が奏でる一楽器』となる。」と述べている。

マーラーのいう「無意識の、不思議な力」に従って曲が作られるという感覚は、いわばアーティストが神懸って一晩で偉大な絵を描くとかそういう不思議な力なのかもしれない。

マーラーは学生時代からグスタフ・テオドール・フェヒナーー宇宙全体が意識を持つ存在であると考える汎神論者ーを読み、伝統的宗教観のみならず、宇宙は生きており自然界のすべてに霊的な力が宿るという宇宙観を持っていた。

友人への手紙で「大宇宙が響き始める様子を想像してください。それは、もはや人間の声ではなく、運行する惑星であり、太陽です」と述べたといわれ、宇宙がハーモニーを奏でるという思想を持ちながら作曲をしていたのだ。

 

「創作ということ、作品が出来上がるということは、最初から最後まで神秘的な行為だ。なぜなら人は自分自身、意識できぬままに、自分の外からやってくる霊感によって、何かを作らねばならないからだ。

そしてその作品については、どのようにして出来上がったか、後からはもうほとんど把握できないのだ」

引用:村井翔著「マーラー」P.87

マーラーが語った作曲の神秘は、その霊感を受け取れる人にとってみれば不思議な力に従って楽曲を創作し、その後の詳細は覚えていないということが起こりうることを示している。

マーラーがどのようにして霊感を受けられる器となったかについては分からないが、深く自己探求をした人であることは想像できるだろう。

 

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3.マーラー 交響曲 第 5 番 アダー ジェットに込めたアルマへの愛

マーラーにとってアルマ・マーラーとはどんな女性・どんな妻だったのだろうか。

マーラーとアルマとの年齢差は19歳、アルマ・シンドラーは作曲家アレクサンダー・ツェムリンスキーに師事する作曲家でもあったが、熱愛の末、結婚にあたってマーラーが求めたのは「作曲の禁止」であった。

マーラーはアルマを深く愛していたが、芸術家としてではなく自身のミューズとして、献身的な妻としての支えを求めたのだった。

指揮者としてオーケストラを率いるときと同じく家庭でも亭主関白なマーラーと、自己犠牲を強いられながらも結婚を受け入れたアルマの関係は、次第に変化を遂げていく。

 

アルマは最初指揮者マーラーの妻として、作曲家マーラーの偉大さはあまり感じていないようだったが第3交響曲の初演で、大きく認識が変わる。アルマの回想記ではこう書かれている。

私は見知らぬ人々の間に座っていた。一人になりたかったので、身内の者たちと一緒に座るのを断ったのだ。私の感動は言葉では言い尽くせぬほど大きかった。私は一人ひそかに泣き、また笑った。突然、私の最初の子どもがお腹のなかで動くのを感じた。

私はこの作品によって、余すことなくマーラーの偉大さを確信するに至ったので、その夜、喜びの涙にむせびながら、この確信を彼に伝え、献身的な愛と永遠に彼のためだけに生きる決意を語った。

この瞬間から、それまでは単なる予感に過ぎなかった彼の全き意義が、私にとって常に変わることなく意識されるものとなったのだ。

引用:村井翔著「マーラー」P.132

アルマの回想記にはある意味での誇張や省略、演出が含まれるというのが世の音楽史研究家のなかでは通説らしいが、アルマの回想記ではこの第3交響曲の初演を聴いた感動を胸に、改めて献身的な愛と自己犠牲、アルマはマーラーに尽くすことを決意したのだった。

 

マーラーは第五交響曲のスケッチを持ってきていた。そのうち二つの楽章は仕上げられていたが、残りはまだ構想の段階だった。私は小さな音でピアノを弾くようにしたが、彼に尋ねてみると、彼の作曲小屋には遠く離れた森の中にあるにもかかわらず、やはり聞こえていたらしい。

そこで私は商売替えをして、第五交響曲の出来上がった分を片っ端から清書することにした。私の仕事はいつもとても速かったので、彼が草稿を仕上げると、その数日後には私の清書が出来上がっているのだった。

彼はだんだん、各声部を完全には書いてしまわないようになっていった。書かれているのは最初の数小節だけだった。そこで私はこの頃から総譜を読むこと、書きながら音を聴くことを覚え、ますます本当に役に立つ彼のための助手になっていった。

引用:村井翔著「マーラー」P.134

アルマはマーラーの献身的な妻でありながら有能な助手としても役にたとうと頑張っていた。長女、そして次女が生まれてしばらくは幸せな家庭だったといえるだろう。

ある時期に長女の不幸な死が訪れ、マーラーの病気や作曲への没頭からアルマの精神的支えが崩れていった。そして1910年、アルマは建築家ヴァルター・グロピウスと不倫関係になり、結婚生活に危機が訪れる。

このことを知ったマーラーの動揺たるや、相当なものだったようだ。

アルマを失う恐れや不安を払拭すべくフロイトに診察をしてもらうことを決意する。

マーラーはフロイトとの診察結果から、アルマとの関係性を反省しアルマの作曲した歌曲の出版をする方向に動き、アルマの作曲活動を回復させることにしたのだった。

マーラー最後の未完の交響曲とされる第十交響曲の草稿には、「君だけが知っている」「君のために生きる!君のために死ぬ!ーアルムシー(アルマの愛称)」という言葉も残っており、アルマとの和解を心から願い作曲をしていたことが伺える。

 

マーラーがアルマに捧げ、アルマへの愛を投影したとされる「交響曲5番 アダージェット」はマーラーの深い愛、アルマという愛の触媒の存在がいたからこそあのような名曲として語り継がれるものとなったといえるかもしれない。

芸術家にとって深く愛する存在がいることは、その感情表現としての創作に大きな影響を与えるのだろう。

マーラーのアルマへの深い愛を感じとりながら、交響曲5番アダージェットを聴いていただきたい。

 

4.マーラー 「亡き子をしのぶ歌」と長女の死<人生は芸術を模倣する>

もう一つ、マーラーの人生を語るうえで興味深いエピソードとして、「マーラーの人生が芸術を模倣したのではないか」ということである。

もちろんこれはアルマの回想記などで語られそれが現実であるかのように演出されたという点もなくはないが、それにしても事実として模倣したように見える面があるのだ。

オスカー・ワイルドは『嘘の衰退』のなかで「人生は、芸術が人生を模倣するよりもはるかに、芸術を模倣する」と語っている。これは「芸術は人生を模倣する」と言われていたアリストテレス的な伝統的解釈の逆説としていったものだった。

マーラーの有名な言葉として、シベリウスとの対話の中で語られた「交響曲は世界のようでなければならない。すべてを包含しなければならない」という言葉がある。これもまた「作品が世界を写し、人生を写す」という考え方につながるものを自身が語っていたということになる。

具体的にマーラーの「芸術が人生を模倣した」点として挙げられるのは、①「亡き子をしのぶ歌」という歌曲を作曲した数年後、長女が4歳で急死してしまう ②「交響曲第6番」《悲劇的》のなかで運命のハンマーが3度主人公を打つと語ったあと、マーラーの人生で3度運命の打撃が襲うというエピソードだ。

マーラーは詩人リュッケルトの詩に基づく連作歌曲で「亡き子をしのぶ歌」を作曲していたが、その時にはマーラー夫妻も娘二人もとても幸福な時期を送っていたのだった。

《亡き子をしのぶ歌》を作曲したマーラーは、三年後に本当に長女を失ってしまう。「人生が芸術を模倣する」ことは、マーラーの生涯をたどる誰もが引き付けられざるをえない不思議だ。(中略)

「芸術が人生を模倣するというより、人生が芸術を模倣するのだ」と述べたのはオスカー・ワイルドの対話形式によるエッセイ「嘘の衰退」(一八八九)だが、ワイルド自身の人生も、小説『ドリアン・グレイの肖像』を模倣するように、やがて凋落の道をたどった。(中略)

引用:村井翔著「マーラー」P.136-137

これについてアルマの回想記では「神を冒涜する行為だ」「悪魔を壁に描くようなもの(不幸を招く)」としてなんで娘が2人元気に暮らしているのにこんな曲を書くのか理解ができないと激怒していたようだ。

マーラーにとって、創作は神秘的なものであり天から天下るインスピレーションに突き動かされて創作するものであるがゆえに、予言のように見えてしまう面もあるのだろう。

 

5.マーラー 「交響曲第6番」《悲劇的》と運命のハンマーの予言

そして第六交響曲では次のようなエピソードがある。

マーラーの場合はすべてが偶然であるだけに、われわれはいっそうその不思議さに魅せられざるをえないのだ。おまけに彼は第六交響曲最終楽章のプログラムをアルマにこう伝えていた。「主人公は運命の打撃を三回受ける。その三回目が木を切り倒すように、彼を打ち倒してしまう」。(中略)翌〇七年には本当に三回の運命の打撃がマーラーに襲いかかるのである。

引用:村井翔著「マーラー」P.137

マーラーの人生において、1907年は最悪の年だっただろう。この年に本当に3度運命の打撃が襲ったのだった。

・長女マリアの急死

・ウィーン宮廷歌劇場監督の辞任

・致命的な心臓病と診断された

 

この現実が起きた後、この第6交響曲をマーラー自身が予言的な曲として恐れるようになり、後に運命のハンマーを3回から2回に改変したといわれている。

 

自分自身で英雄が運命の打撃を三度受けるストーリーを交響曲として表現しながらこの楽曲を予言的な曲として恐れるというのは、霊感によって創作された楽曲そのものがマーラーを器として天から降ろされた予言の曲を恐れて自分の力で改変してしまった感覚に近いのかもしれない。

マーラーは第9番交響曲を創作する際も、第9を作った後死んだベートーヴェンやブルックナーを思い、わざわざ第9交響曲と名付けず「大地の歌」と名付けたほどだったという。

バースタインは「大地の歌」を「ほとんど禅的な死の瞑想」と語ったといわれ、第9交響曲も”死”がテーマであるがゆえに晩年のマーラーの死への旅立ちを予言したような順序にもなっているのだ。

ここで「ほとんど禅的な死の瞑想」と語ったとされるバーンスタイン指揮の「大地の歌」をお聴きいただきたい。

 

晩年、アメリカのニューヨークにまで移住しながら回復の見込みがないと悟りウィーンに戻り、51歳の6週間前に敗血症で死去したのだった。最後の言葉は「モーツァルトル!」といわれている。

マーラーの人生全体が「自身の作品を模倣した」といわれるほどインスピレーションと芸術性に満ちた稀有なる人生であり、世界を包含しうる交響曲にまで高めたという点で、19世紀のクラシック音楽の高みを作った偉人といえるだろう。

 

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ありおん

Aoide Production代表。”文化の創りかた”ブログ管理人。 Vyond、Premiere proで動画制作|HP制作|楽曲制作|ブログ|新しい文化をカタチに!仕事依頼はAoideProductionホームページをご覧ください。

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