天狗の心と感謝について

Pocket

今日は、天狗の心と感謝について

探究してみたいと思う。

 

1.天狗的傾向への気づき

 

私は現在教育関係で働いているのだが、

最近、御法話や実体験で深く感じ入ることがあった。

それは、

「天狗的傾向が自らの心のなかにあったからこそ、

天狗的傾向の学生への戒めが甘くなってしまっていた」

ということである。

天狗的傾向を持つ若者への戒めを

数多く大川隆法総裁は説かれてきたが、

それを学び、かつ指導すべき側の人間が、

表面的な態度や人格を修正して

修行していると思っていても、

心の中の深い傾向性にまで修正をかけなければ、

心の中にまだ天狗の心は眠っているかもしれない。

今回、それを鏡のように学生の姿を通して

気づきを与えられた気がした。

 

天狗の心といっても色々あるが、

一つには慢心、増上慢である。

自力天狗という言葉があるが、

「すべて自分がやってきたのだ」という念いが強く、

謙虚さや、周りに対する感謝が足りない。

親や先生や周りの友人から与えられても、

与えられて当然と思ってしまう傾向はないだろうか。

また自己愛が強く、自分への愛や賞賛を求めてしまう。

 

宗教修行を日々していても、裁き心が強い人、

修行者のように努力はするが、愛が足りず

強い性格の人にありがちな落とし穴ではあるので、

参考までに気づきを共有しておきたい。

 

2.まず愛あれ

 

仕事で努力しつつも、頑なになっていた自分に

最近衝撃を与えた仏言が以下の言葉であった。

たとえ、いかなるこの世的なる諸問題がわが前に現れてこようとも、いかなるこの世的なる諸問題が立ちはだかってこようとも、その難問題を片づけるべく我自らが、鉄の塊のようになったとするならば、これは敗北である、私はそう思います。

私は、三次元的なる力によって、三次元の諸問題を、諸悪を解決することをもって、自己実現とは思いません。この三次元のなかにあって、あくまでもこの世界を超えた力を自らの内に体現し、それを風のごとく吹かしつづけ、吹きつづけ、通り過ぎて行ってこそ、今世、自分として納得のゆく自己実現がそこになると思うのです。

引用:『信仰と愛』第一章 究極の自己実現 P.15

 

何年か前から、

『青銅の法』、『鋼鉄の法』と

信仰の強さを学んできたがゆえに、

努力精進によって信仰を深め、

降魔していくという念いは強かったのだが、

「難問題を片づけるべく我自らが、

鉄の塊のようになったとするならば、これは敗北である」

という言葉に、自らの心の誤りを

思い知らされた思いがしたのである。

 

ああ、そうか、

主の考えられる理想の仏弟子の姿は、

まず強くあれ、ではなく、

まず愛あれ、であった。

しかし、いつも自分はなぜか『永遠の仏陀』のなかの、

しかして、強くなれ。
しかして、無限に鍛えられてゆけ。
しかして、無限に美しく、
しかして、無限に善きものとなれ。

という箇所に非常に魅かれる傾向が

あったことを思い出した。(笑)

 

「感謝」が大事であると、日々言い聞かせ、

繰り返し学び分かったつもりでいても、

すぐ感謝が足りなくなるのは、

やはり慢心の芽があると見たほうが良いと思うが、

愛についての悟りが未熟であるから

ともいえるのだろう。

 

3.愛は循環なり。愛を止めるな

 

愛とは何であるか。なぜ感謝が大事であるのか。

大川隆法総裁の一節を2つ紹介したい。

愛とはなんであるか、よくよく心に問うてみるがよい。愛とは、「あなたがたが、いかほど与えられているか」ということを、そして、「仏からすべてが与えられ尽くしている」ということを、発見し、自分のものとしたときに、おのずから感謝として湧き出でてくるものなのだ。

引用:『愛、無限』 P.122

 

すでに、すべてを与えられているということを、

どれだけ魂の実感として掴んでいるか。

そして、神の愛を受けたならば、どうするのか。

愛は効率ではないのです。愛は合理化ではないのです。愛は能率ではないのです。こんな無駄なもののなかに、無駄な人生のなかに、無駄な人生のなかに、無駄な繰り返しのなかに、見捨てることなく絶えず皆様を見続けている、この神の忍耐心が愛の根本なのです。

それゆえにこそ、我らはその真実に気づいたときに、愛を止めるわけにはいかないのです。(中略)

我らがいま生かされていることを知ったなら、そのことを感謝したなら、神の心を一部分でも、ひとにぎりでも、本の砂つぶひとつであっても、理解できるみなさまであったならば、限りなく吹き抜けていくことです。

引用:『信仰と愛』第1章 究極の自己実現 P.50

 

この御法話において、

愛は循環であり、

活動を止めた時に愛は死ぬ

と詩的に語られた部分があった。

また、別の御法話のなかに、

一つのたとえで語られた部分で、

私たちの魂は、みんな本来繋がっている

一本の生命の大樹である

という話があった。

 

その生命の大樹の根っこの一つが私たちの魂であり、

その根っこが自己中心的な念いで、

自分のみに養分をとどめておきたい

と思ったらどうであろうか。

全体の生命の大樹を枯らす行為であり、

大木として成長していくための養分を

運ぶことが使命であるにもかかわらず、

自分を小さな独立した木とみて、

自分に信仰や養分を集めようとする姿でもある。

生命の大樹のたとえでみれば、

天狗の心がどれだけ

愚かな心かが分かるだろう。

生命の大樹として、主の愛を与えられたなら、

根っことしてやるべきことは、

多くの養分を、

主への感謝として捧げることである。

 

愛は循環であるがごとく、

感謝という行為を通して、

主から与えられた愛が循環し、

感謝からの与える愛を通して、

自らがつながっているところの

根本の生命の大樹が大きく

成長していくことができるのではないだろうか。

 

根っこの一つとして、

透明な風のごとく愛を循環させ、

使命を淡々と果たし続けることを理想として、

天狗の心への自らの戒めとしていきたい。

 

更新の励みに、ランキングに参加しています。

よろしければ、クリック応援お願い致します!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へにほんブログ村 にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へにほんブログ村

宗教ランキング

アーティストランキング

Pocket

0
最新情報をチェックしよう!