”愛は与えた人のものになる”という霊的法則の意味

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今日は、「思い」と「行い」と「結果」のウエイトの違いについて探究したい。

 

1.思いと行いのウエイトの違いが表側と裏側を分ける

 

みなさんは、普段「思い」と「行い」と「結果」、

どの部分を重視して生きておられるだろうか。

宗教などを学ばず、社会人として生きていると、

「行い」において法律に反する行動をせず、

どれだけ大きな「結果」すなわち「成果」を挙げるか、

しかも短期間で成果を出していく人が

仕事ができる人間と言われる。

また指導者層においても、

政治家や経営者は「結果責任」であるということを

よく聴くし、どんなにいい人でも

「結果がすべて」、いい結果を出せなければ

いいリーダーではない、という考え方が

常識的な考え方としてあると思う。

自分も長らく、そのような考え方を持って

生きてきた。

 

しかし、2021年は『秘密の法』の年として、

霊的世界のなかでの

表側と裏側の価値観の違いが明らかにされる年

でもあるが、

『観自在力』で改めて衝撃を受け、

今回のテーマを考える

きっかけとなった一節を紹介したい。

天上界の「表」と「裏」を分けているものは何かというと、それは、地上において私たちが仏法真理を実践するときに非常に大事な徳目とされている、「思い」と「行い」の”両者のウエイトの違い”を考えざるを得ないのです。つまり、実在界においては「思い」のほうに重点があり、「思いに重点を置く」ということが主流の考え方であるのです。そして、「行為」あるいは「行為の結果として生ずるもの」に対する重みは、表側では少なく、裏側では大きいのです。

引用:『観自在力』P.267

 

ここでは、

天上界の「表」と「裏」を分けているものは、

「思い」と「行い」のどちらを重視するかの

”考え方の違い”である、ということを言っているのだ。

 

天上界の表側では、「思い」「動機」を重視し、

「結果」はあまり重視しない。

しかし、裏側の人であればあるほど、

「結果」にこだわり、

どんな手を使ってでも「結果」を出す

という考え方は”裏側”であり、

少なくとも王道ではないということを意味する。

 

2.”愛は与えた人のものになる”という霊的法則の意味

 

この地上において宗教を学ぶと、

自分の心の中の思いの点検に

意識が向くようになるのだが、

どれだけ自分の「思い」、「動機」のことを

考えているだろうか。

『観自在力』では、次のように説かれている。

「思いと行為と結果という三つのプロセスのうち、どれが神仏に近いか」ということを考えると、やはり、「思い」そのものが神仏に近いのです。神仏に近いものは「思い」そのものなのです。そのあとに「行為」が続いてきます。そして、行為のあとに「結果」が続いてきます。この順序を”外側”の「結果」から求めてくる人というのは、神仏が創られた世界観から見ると、やはり「外郭に近い人である」と考えざるをえません。しかし、もともと、人間はそのように創られたわけではないので、”外郭”すなわち外側のほうから判断していく人というのは、「それだけ地上的な考え方をする人である」ということなのです。「結果」を中心に見ていく人というのは、それだけ地上的思考になじんているのです。

引用:『観自在力』P.270

 

霊的世界の法則として、

神仏は「念い」でこの世界を

創られたと言われるがごとく、

「思い」「行為」「結果」という順番で、

内側から外側に向かっているということであり、

ビーカーのたとえから言えば、

「思い」の部分が上澄みの

純化された蒸留水だとしたら、

「行為」「結果」という下に向かう段階で

沈殿物が混じり個体に

なっていくようなイメージである。

 

何が言いたいかというと、

「結果」重視というのはそれだけ

三次元的地上波動に近く、

「思い」「動機」を重視する人というのは、

それだけ天上界の霊的世界観の法則に親和性がある

ということなのだ。

霊的世界の大部分というのは、「念いの世界」「動機の世界」なのです。「動機」「念う」ということ自体が、すでに霊的世界では「行為」に当たるのです。地上では結果が出なくても、地上を去った世界においては、結果が出たと同じことになるのです。

 霊的世界では、「念い」というのはそのまま出てきます。百出したら百出てきます。地上では、百の念いを出しても、出てくるのは実際は三ぐらいであることが多いのです。結果として出るのは三ぐらいしかないので、あとの九十七は無駄に終わったと思うかもしれないけれども、実際は、霊的世界に還ってみると、無駄ではないのです。その部分は確かに残っていたのです。「実現されたもの」として残っているんですね。これを忘れないでください。

 これが、「天の蔵に徳を積む」ということなのです。この世で全部使ってしまうのではないのです。使わなかった部分は“貯金”ができているのです。それを忘れないことですね。

引用:『エル・カンターレ人生の疑問・悩みに答える 人生をどう生きるか』

 

霊的世界の大部分は

「念いの世界」「動機の世界」であり、

「念う」こと自体が「行為」そのものであるということを、

どれだけ理解できるかが、霊的世界の法則を掴む鍵

でもあるのだろう。

 

「念い即我」というが、

日々に思っていることがその人自身である

ということを表している言葉であるのだが、

霊的世界から見たら、

「念い」は則実在であり、「行為」でもあるのだから、

この地上で何も行動せず何も実現していなくとも、

「念った」時点でその人は霊的な想念体には

「霊的行動」として記録され、

その人の魂の傾向や性格を表してしまう

という理解もできる。

 

”愛は与えた人のものになる”という霊的法則

大川隆法総裁は説かれているが、

地上において100の愛を思ったとして、

結果としては3しか具現化しておらず、

伝道や愛の行為が失敗に終わったとしても、

霊的世界においては、

100思った愛の念いは、100実現しているのである

ということなのだ。

 

これは霊的世界においては、

霊的行為として記録され、

「天の蔵に徳を積む」と言われる。

これは、「結果」として愛が実ったかどうか

が重要ではなく、

どれだけの愛の「思い」を発したか、

その思いの蓄積が、この世の結果とならなくとも、

「徳」として天上界に積まれているのである。

だからこそ、他の人のことを愛し続けた人が、

「徳」ある人と言われるのだろう。

 

「動機は善であるか、愛であるか」ということを

考えて生きることが、

本当に天上界と同通する心で生きるためには

大切な心構えでもあると思う。

 

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